史料 村と藩の福祉

水戸領太田村(常陸国久慈郡 常陸太田市)の「文化15年 御用留」を眺めていたら、二つの記事が目にとまった。行方不明となった老人の探索と水戸藩上屋敷門前の捨て子の養育者探し。過酷な封建制社会という江戸時代のイメージとは異なった二つのできごと紹介しよう。

この文化文政期は、関東農村の荒廃が最も進んだ時期である。水戸藩領の人口をみれば、享保11年(1726)31万8475人から文化13年(1816)には22万7215人、90年で30%減少した。しかし歴史的背景を探す理由はなさそうである。

人が行方知れずとなったら探す。捨て子があったら育てる。

その手だてをどうするか、時代によって異なるだけのことである。


凡例

1 文化15年9月 太田村農民が行方不明に

[原文]

  乍恐以書付奉御訴申上候事

                          太田村
                               大内屋敷
                           百姓 与兵衛
                            とし 五十才

右之者当春より乱心之様子ニ相見へ候所、乍療治芦間村姪聟玄信申もの所へ六月中旬より罷越世話ニ相成居□候所、当月七日昼九ツ時頃風欠出候ニ付隣家之者共尋罷出、追々大勢ニ山川等相尋候得共行衛相知レ不申、右之段乍恐書付ヲ以奉御訴申候、仍如件

  右之者容体

一 小せい 色黒キ方
一 顔眼鼻口耳 なミ体
一 眉毛 厚キ方
一 言舌 早キ方
   着類
一 紺縞古綿入
一 紺縞古単もの
一 帯紺しま半さき

右之通ニ御坐候

 寅九月十一日訴申出候               惣役人

[読み下し]

  おそれながら書付を以て御訴へ申し上げ奉りそろこと

                          太田村
                               大内屋敷
                           百姓 与兵衛
                            歳 五十歳

右の者当春より乱心の様子に相見へそろところ、療治ながら芦間村[常陸太田市]姪聟玄信と申す者の所へ六月中旬よりまかり越し、世話に相成り居り□そろところ、当月七日昼九ツ時頃ふと欠け出でそろに付き、隣家の者ども尋ね罷り出で、追々大勢にて山川など相尋ねさふらへども行方相知れ申さず、右の段恐れながら書き付けをもって御訴へ申し奉りそろ。よって件のごとし。

  右の者容体

一 小背  色黒き方
一 顔・眼・鼻・口・耳  並み体
一 眉毛  厚き方
一 言舌  早き方
   着類
一 紺縞古綿入
一 紺縞古単物
一 帯紺縞半裂き
 右の通りにござそろ。
  寅九月十一日訴へ申しいでそろ。       惣役人

解説

常陸国久慈郡太田村(常陸太田市)の百姓与兵衛は、文化15年(1818)の春から乱心の状態(今で言うなら認知症であろうか)となった。村内に身寄りがなく、6月中旬に姪の嫁ぎ先である芦間村(常陸太田市)玄信の家に身を寄せ、世話になっていた。太田村から北西にある芦間村までは直線にしておよそ4キロメートル。

ところが9月7日の昼になって、与兵衛はふと出かけてしまった。近所の者たちが尋ね歩いたが見つからず、ついで大勢の者が山や川までも調べた。が、行方はわからなかった。そこで村役人は姿、形やなりふりを書き出して、9月11日に管轄の郡奉行所へ届け出た(原文には宛先を欠いているが、このような願書は、郡奉行所に出される)のである。

その後、訴願状を受け取った郡奉行所は、経過をまとめて、近隣の村々に「容体」を添えて行衛不明者の探索依頼をしたはずである。結果はわからない。

2 文化15年 水戸藩江戸上屋敷門前に捨て子

小石川御屋敷大御門前へ當才之女子捨子有之、御屋敷へ御引取置ニ相成候所、此上御国へ御指下願人有之候ハ被下ニ相成候所、願人有之、為迎江戸表へ罷登り候節ハ右入用金、尚又里子ニ相頼レ事ニも候得ハ、二三年之間ハ里子金ヲも願之振りニより被下置候条、其旨相心得村中惣百姓水呑寺社門前ニ至迄無洩相達、願人有無共書付ニいたし来ル七日迄支配ハ□□□□□□□□見届早々□□相廻り留り村より可被返候、以上

  十二月四日          加藤政衛門
                 石川堅五郎

[読み下し]

小石川御屋敷[1]大御門前へ当歳の女子の捨子これあり、御屋敷へ御引き取り置きに相成りそろところ、このうえは御国へ御指し下し、願ひ人これありそろは下されに相成りそろところ、願ひ人これあり、迎として江戸表へ罷り登り候節は右入用金、尚又里子に相頼れことにもさふらえば、二三年の間は里子金をも願ひの振りにより下し置かれそろ条[2]、その旨相心得、村中惣百姓・水呑・寺社門前に至る迄洩れなく相達し、願ひ人有無とも書き付けにいたし、来る七日迄支配は□□□□□□□□見届け早々□□相廻り留り村より返さるべくそろ[3]。以上

  十二月四日          加藤政衛門
                 石川堅五郎[4]

[註]

  1. [1]小石川御屋敷:水戸藩江戸上屋敷
  2. [2]里子は一般に他人に預けて育ててもらう子のことだが、「乳不足して小児を他に預けて養はしむる」ことを指すこともあり、里子金を支給するとは里親の門戸を広げるための意味があったものと考える。
  3. [3]「来る七日まで支配は……」は、藩(郡奉行所)からの達の末尾にある常套句のようなもの。郡奉行所は、管轄の村を十ヶ村前後に分け、達や触を定められた順番で回し、最後の村から戻すようにという指示をだしている。村々では庄屋が届いた達を写し、次の村に廻す。したがって達の原本は村には残らない。12月4日に出され、村々で願い人の調査が行われ、7日までに回答。間は二日である。当時は無茶な要求ではなかったのであろう。村内を熟知している庄屋のこと、それほどに処理が迅速であったということであろう。
  4. [4]加藤政衛門と石川賢五郎は、郡奉行所(大里組か)の手代であろうか。

解説

水戸藩江戸小石川の御屋敷(上屋敷)の門の前に、数え歳ひとつの女の捨て子があった。藩は屋敷に引き取った。国元の水戸で育てようというものがあれば預けるので、願い人がいて、迎えに江戸まで登ってくるならばその経費、あるいは里子にするならば、二三年の間は扶助金を下げ渡すので、村人全員に知らせ、願い人の有無を書いて、12月7日までに郡奉行所まで知らせよ、という達であった。

結果はわからない。