史料 水戸領鎮守神名附
元禄期に水戸藩において徳川光圀主導によって多くの神社が潰され、あるいは名称(神名)が変えられました。その改変を記録した史料が日立市郷土博物館収蔵の「御領内鎮守神名附」(瀬谷義彦家旧蔵)です。
それを翻刻して PDF版 水戸領鎮守神名附 として提供します。
本文はA4判3段組で42頁です。
江戸時代の楷書・行書・草書がいりまじった「御領内鎮守神名附」(史料の表紙にこうあります)を読み解き、「水戸領鎮守神名附」としてPDF版を制作したのは、日立市郷土博物館で活動する古文書学習会です。
以下本史料について簡単に説明します。
史料の成立時期は、元禄期の神名改変をベースにして宝永・享保期の記事追加が見られ、また文政6年(1823)の村名改変が反映されていること、天保期の合村がみられないことから、文政年間の後半と考えられるといいます。
記録者はわかりません。
本史料のほかに水戸藩の元禄期の神社整理の結果を書きあげたものとして彰考館が所蔵する「鎮守帳」があります。これは『神道大系 神社編十八』(神道大系編纂会)に翻刻されています。ほかに静嘉堂文庫が所蔵する「宝永頃 水戸領鎮守録」があります。
本史料とこれらの史料の違いは、ひとつは成立時期。元禄期の「鎮守帳」、宝永期の「鎮守録」。そして文政期の「神名附」。
第二に本史料が「神名附」とあるように神名(八幡とか諏訪、愛宕など)変更のいきさつを中心としていること。
第三に祭祀者、神体、社領、その所持者、免租地が記載されるも、社殿・鳥居などの大きさが省かれていること(冒頭の水戸城下の吉田台町、上町、下町の神社を除く)。
第四に享保期の神号変更が記載されていること。彰考館に入り大日本史の編纂にたずさわった丸山雲平が4ヶ村の鎮守の縁起を書き替えた。これによって神号(明神、権現、神宮など)の変更が行われたことを享保期の記事が伝えている。
光圀は民衆の信仰を支配しようとした。その一面の実態を明らかにしているのが本史料です。しかし民衆もしたたかなもので長いあいだには再興された神社がいくつもありました。たとえば油繩子村の若宮八幡です。元禄8年12月に潰されますが、天保期には再興されていました。信仰という人の基層的な部分は政治権力をもってしても簡単には変えられないということでしょうか。