久慈村の渡し —常陸国浜通りの起点・終点—

常陸国久慈郡久慈村(日立市久慈町ほか)に小名(字)「舟戸」がある。茂宮川に面し、久慈川との合流点に位置している。現在の久慈川は太平洋にまっすぐに注いでいるが、近年までは留町の東で北に折れ、舟戸で茂宮川をあわせ、まちに沿って北流し、久慈小学校下で海に入っていた。

国土地理院 明治38年(1905)測図 5万分1地形図「湊」の一部を拡大、加工

嘉永2年 久慈村田畑反別絵図 字舟戸部分

舟戸は「舟渡」で、ここに渡しがあった。右の絵図は嘉永2年(1848)4月「久慈村田畑反別絵図」(日立市郷土博物館蔵)字舟戸の一部を示したもので、下の青い部分は茂宮川。道の両側に3軒の家が描かれ、右側の2軒の土地(屋敷地)に「船頭給」と書きこまれている。屋敷地2筆(38坪)のほかに屋敷地周辺に田畑6筆(7畝23坪)が船頭給と記載があります。船渡しの船頭たちの生計をささえる家と耕地が用意されていたのです。

久慈村の町場から南に山を越え、下りてきた茂宮川べりに2軒の家が描かれる、これらは船渡しの船頭の屋敷と耕地に関する記述なのです。

この船渡しはどこへ向うか。茂宮川対岸の留村でしょうか。留村なら対岸の豊岡村に再び舟に乗らなければなりません。久慈村の舟戸から久慈川をさかのぼり直接豊岡村に渡ったと考えます。

渡船運営規定

久慈川の渡しの運営方法について寛永11年(1634)石神村の彦三郎と久慈村の小右衛門らが連印で水戸藩に提出したという証文が『日立市史』(1959年)に紹介されている。

第一に、船渡しを利用する者は身分にかかわらず平等にあつかい、夜になっても渡し、大風が吹いていたら慎重に舟を渡す。
 第二に、商い荷物の運賃は、以前からの取り決め通りとし、一銭たりとも多くとらない。
 第三に、渡し船は常に清潔にしておく。

あたりまえと言えばあたりまえのこと。現代の常識は江戸時代でも常識だったのです。

この渡しが岩城道中か村松からの浜通りかわからないと『日立市史』は言うが、当時の石神村はのちの石神外宿・石神内宿・白方・北河原の4村をふくんでいました。わかれるのはこの証文が作られて7年後の寛永18年のことです。このうち北河原村は寛政4年(1792)に豊岡村と改称しています(『茨城県の地名』)。『日立市史』が紹介する手形にある石神村とはのちの北河原(豊岡)村にちがいありません。久慈村からもっとも近く、村松村とを最短でむすぶからです。

元禄10年(1697)安藤朴翁の紀行文「ひたち帯」(古文書学習会編『道中記にみる江戸時代の日立地方』)。安藤は水木の泉川を見物してから久慈浜から村松の虚空蔵尊を参拝していますが、そのとき「久慈の濱を左りに見て舟ワたしをこへ、北河原村をすき、村松山日高寺に参る」と記録していることからも、久慈村と北河原(豊岡)村をつなぐ渡し船があったことは明らかです。これらのことから、上記の証文は岩城海道ではなく浜通りの久慈村とのちの北河原(豊岡)村のとりきめだと考えます。

浜通り

『日立市史』の言う「浜通り」とは、(1)日立市域の海岸沿い、つまり会瀬、河原子、水木、久慈の漁村をつなぐ道(2)久慈から豊岡、村松、湊、磯浜から鹿島への「鹿島道」「鹿島海道」をさしています。

この道をたどった記録がいくつか残されており、古文書学習会編『道中記に見る江戸時代の日立地方』によって紹介しましょう。

天明6年(1786)堀田正敦「鹿島日記」。正敦は仙台藩主伊達宗村の8男、天明6年のこの年堅田藩(近江国)1万石の田村家に養子に迎えられる。仙台をでて相馬、岩城海道をのぼり、水木の泉明神から久慈浜にでて、村松虚空蔵尊、中湊、夏海から鹿島神宮を参詣して、江戸に入ります。

幕府目付遠山景普の文化4年(1807)「続未曾有後記」は蝦夷からの帰路、八戸から太平洋岸の海防状況の検分を記録します。会瀬から成澤、下孫(現在の日立市国分町は江戸時代には下孫村)、河原子、金沢、大沼、水木、久慈、豊岡、白方、村松、照沼、長砂、前磯、平磯、湊、磯浜(大洗町)と海辺をたどっています。次に久慈村の船渡しを前後をふくめて引用します。

金澤村、大沼村、水木村、岡上の廣芝を田楽場といふ。其突先に遠見番所あり。下はすへて数尋の削崖なり。丘陵林野を経て久慈村。久慈川の落口を舟にて渡る。金澤村より絶壁つゝき、こゝにて断て廣濱なり。久慈川は西南より来て、山陰にて西北より茂宮川合流し、幅二町はかり長流となつて海に入るなり。是よりすく道を行く。驛路は右列樹々あり、河に就て林中に入る。豊岡、白方村、むら松村休

遠山は「久慈川の落口」を舟で渡りますが、「落口」は河口、しかも金沢村からつづいた断崖が終ったところです。とすると遠山は現在の久慈小学校下あたりから舟で向渚(砂嘴)に渡ったものと思われます。町のなかを通らず、舟戸の船渡しを使わずに約2キロメートルの砂浜をあるいたのです(馬に乗っていたかもしれませんが)。幕府目付ですからこのくらいのことはできたのでしょう。

天保12年(1841)上野国連取村(群馬県伊勢崎市)の商人森村新蔵の「北国見聞記」は、松前(北海道)へ向う旅の途中、水戸から磯浜にでて、中湊、村松、久慈浜、水木、河原子と海岸沿いをたどり、油繩子で岩城海道にはいっています。

今なら国道245号と51号、これらの海沿いの道は、常陸国太平洋岸の漁村をつなぐ経済の道であり、村松虚空蔵尊や鹿島神宮への信仰の道でした。