聞き語り 煙害警戒と気象観測

日立鉱山の煙害対策として気象観測態勢の整備と大煙突建設が語られることが多い。しかし大煙突だけで煙害が減少したのではなかった。むしろ高所からの排煙はただちに被害地の拡大をもたらすことが当初から懸念されていた。この高所からの排煙方法は観測による気象変化予測と煙流の追跡による製錬量コントロール(制限溶鉱)が付加されることで煙害の減少がもたらされたのである。これを具体的に示す聞き語りを紹介する。

語り手の渡辺守さんは、1905年(明治38)福島県石城郡内郷村綴(いわき市)生まれ。1920年(大正9)郷里を出て、当時日立製作所山手工場内にあった徒弟学校(日立専修学校)に入学。兵役後、朝鮮総督府巡査となる。1936年(昭和11)日立鉱山庶務課に入所した。

例によって縦書きを横書きにし、一部漢数字をアラビア数字に直した。

煙害警戒と気象観測

渡辺 守

気象観測

 朝鮮で兵役除隊の際現地で巡査を志願しましたが、昭和6年に日立市本山出身の家内と結婚しました。その家内のすすめもあり、将来子供の教育のことなど考えると、郷里で安定した仕事に就きたいということで日立鉱山に入りました。

 配属されたのは庶務課の地所係、係長の小山田栄さんは気象の専門家で係の人数は20人位いました。仕事は主に大煙突から出る煙の流れを監視することと気象の観測で、毎日の気圧や気温、湿度、それから風速や風の向き、そのほか雲や雨の量など観測しました。中心の神峰山観測所では毎日3人ずつ交替勤務をやり、1日6回の気象観測を行いました。そのほか常陸太田市瑞竜の観測所にも二人常駐し、同じような観測をしてました。そのほか、上大門(常陸太田市)など六か所の臨時観測所にも一人ずつ派遣されてました。

 特別警戒といって、毎年4月から11月までのうち山林や畑作物の成育期間に合わせて警戒しました。山林では特に松の新芽が煙に弱いので4月から6月まで、そのほか畑作ではたばこ、そぱ、麦の作物も時期に合わせて警戒しました。

煙の追跡

 煙を監視していて煙がもし地面に当たるようなときは、すぐその付近へ行き試験紙を取り出し空気に晒してガスの濃度を測定します。その結果をすぐ専用電話で神峰山(観測所)に通報するのです。煙の濃度が高く、長く続くようなときは風向きを考え、庶務課の警戒本部から製錬へ連絡して、排出ガス量のうち硫黄分を80パーセントか50パーセントというように減量して、農作物などの被害を予防するようにしていました。

 煙が見えるときは自転車に乗って追跡できるのですが、霧や雨で見えないときは苦労しました。そんなときには携帯用電話機を背負って、野良犬のようにガスの臭いを嗅ぎ廻るのです。通報するときにも、高い木に登って電話をかけたこともあります。

 また観測所へ独りで泊まり込むときは、食糧を十日分位買い込んで自炊しました。警戒のため二十日以上も家へ帰らないこともありましたが、風呂へ入れないのが何より困りました。観測所に駐在中、農家から直接被害作物を見せられたり、煙にやられた畑へ案内されたこともあります。そのときには調査の係に連絡して調べてもらうようにしました。

 終戦になったから臨時の観測所はみな閉鎖しました。瑞竜は昭和26年10月に、神峰山は翌27年2月に閉鎖しましたが、神峰山観測所の方は日立市でこの施設を引継いで観測を続ける話が進んでいました。そのころは、気象の係も12人ないし13人ほどいたものが半数の6人位に減っていました。神峰山の観測所が日立市に移管されたのは27年6月になってからで、私にとっても先輩に当たる相沢丈夫さんが勤務に就きました。私も煙害警戒の勤務から離れ、定年まで山林の間伐や植栽、火防見張りなどの仕事をやり、36年3月相沢さんが辞めた後神峰山に常駐するようになりました。神峰山を最後に下りたのは昭和48年3月のことです。

1985年4月13日聞きとり

鉱山の歴史を記録する市民の会編『鉱山と市民』(1988)より