日立警察史年表
1874—1954年

本年表は1954年(昭和29)6月20日に日立市警察署が発行した『日立警察史』からとったものである。

『日立警察史』76〜77頁 1946年(昭和21)6月〜11月の記事

日立市警察が解散し、茨城県警に編入される10日まえに出版された。A5判、本文145ページ。外に写真や管内略図などが付されている。この本の中心は「第3章 年次沿革」である。これに約120ページを費やしている。年表仕立てで、上段に警察署の動き、下段に管轄地(多賀郡坂上村から日立村、現在の日立市水木・森山から滑川までの多賀郡)の動きを配置し、1874年(明治7)から1951年(昭和26)9月までをカバーしている。

本書の編さん契機は、1948年1月からそれまでの中央集権型から民主的な機構をめざして市町村に設置された自治体警察が、1954年警察法が改正され、7月から府県別の警察に所属することとなったことにある。

警察が地域の何を管轄していたか、あるいは何に関心をもっていたかを知りうる史料となっている。

本項はこの「第3章 年次沿革」から制作者の関心にそって抜きだし、再編集したもので、警察署の動きは、月日を太字にした。

[引用文について]
漢字は常用漢字があるものは常用漢字に改め、ないものはそのままとし、仮名遣いもそのままとした。[ ]内は制作者による註記である。

1874年
明治7
4月24日 助川警察出張所開設。邏卒(らそつ 巡査)2名を配置
その管内は南は水木、森山より北は手綱、横川、大能、中戸川の二十八ヶ村である、邏卒は大小を手挟むことを廃して三尺棒を持たした、始め各二、三ヶ村毎に一名の番人を置いたのを廃して邏卒を置いて、従前の捕吏、取締組番人を名称を廃した。

1875年
明治8
6月 助川陸運継立所並に助川郵便取扱所が開設
10月 助川村で寒水石採掘工事開始
10月 この月邏卒を廃し、巡査と改める
1876
明治9
4月 助川警察出張所を平潟警察分署助川交番所と改める
助川・会瀬・宮田・滑川の戸口
助川241戸・1703人 会瀬264戸・1334人 宮田183戸・984人 滑川164戸・832人(1戸当り助川7人 会瀬5人 宮田5人 滑川5人)
1877年
明治10
助川村宮田通治弟宮田幾之介、西南の役に官軍として出征。薩摩軍辺見十郎太の抜刀隊と戦い、肥後国滴水に戦死
1878年
明治11
7月 助川交番所を太田警察署助川分署と改める
助川小学校生徒56人(校長石井磊三) 宮田小学校生徒64人(校長斎藤維民)
1879年
明治12
2月 公選戸長選挙法。助川村岡部基三郎、会瀬・助川村の聯合戸長。滑川村根本庄重郎、宮田・滑川村聯合戸長
3月 茨城県会議員選挙。多賀郡では上相田村今藤忠平、下手綱村石川弘毅当選
1880年
明治13
12月 折笠村大津淳一郎、教職を辞し、多賀郡有志総代として大坂の国会開設請願大会に出席
1881年
明治14
2月 県会議員改選。折笠村大津淳一郎、磯原村野口勝一当選
3月 助川分署庁舎を助川村岡部正外有志の寄付によって敷地を確保し、新築。この月、日立村宮田字中山と高鈴村助川字池之端(現日立市役所前)、助川駅西側の3ヶ所に巡査駐在所を設け、その他管轄村に巡査駐在所を置く
4月17日 文部権大書記官島田三郎、多賀郡南部の教員を助川小学校に集めて講演会
10月 野口勝一、自由党に入党
1882年
明治15
1月 大津淳一郎、立憲改進党に入党
6月6日 宮田滑川聯合戸長に大和田安次郎
8月 多賀郡でコレラ流行
1883年
明治16
1月 天童山大雄院焼失
4月18日 助川会瀬聯合戸長に助川村の岡部正
1884年
明治17
6月 会瀬・成沢・助川・宮田村の4ヶ村が聯合、滑川・小木津村外3ヶ村が聯合
10月 会瀬村外3ヶ村聯合戸長に助川村の岡部正
1886年
明治19
10月 助川村下宿に官有林管理のため小林区署設置
1887年
明治20
10月 太田警察署助川分署を松原警察署助川分署と改める
1889年
明治22
4月1日 市・町村制施行。助川・会瀬村合併し、高鈴村。初代村長岡部正・助役長山重夫・収入役佐藤長七。宮田・滑川村合併し、日立村。初代村長根本兼松・助役佐藤仙三郎・収入役遠藤靖
4月23日高鈴村会議員選挙、翌24日日立村会議員選挙
4月 松原警察署助川分署を松原警察署高鈴分署と改める
1890年
明治23
3月12日 日立(宮田)小学校焼失
7月1日 第1回総選挙。大津淳一郎当選、野口勝一落選。「政争是より益々激しくなつた」
1892年
明治25
2月15日 総選挙。野口勝一当選、大津淳一郎落選
4月 高鈴村・日立村会議員選挙
1893年
明治26
6月 高鈴村助川に水戸区裁判所助川出張所設置
12月 日立小学校に高等科併置
1894年
明治27
3月1日 総選挙。野口勝一・大津淳一郎当選
4月11日 日立小学校再度焼失
1896年
明治29
7月1日 郡会議員選挙。日立村佐藤仙三郎、高鈴村岡部正当選
1897年
明治30
6月1日 会瀬石倉山に日蓮宗童仙寺
6月30日 助川小林区署を廃し、助川詰所となる
1898年
明治31
3月 高鈴小学校、助川城跡へ新築、移転
4月 日立村、高鈴村会議員選挙
9月 日立村に伝染病隔離病舎設置
1899年
明治32
10月 郡会議員改選。日立村根本兼松、高鈴村岡部環当選
1900年
明治33
9月 高鈴村伝染病隔離病舎設置
1901年
明治34
4月 日立村、高鈴村村会議員改選
10月 日立村赤沢銅山を宇都宮大橋真六、横浜アルボース会社(ボイエス商会 ref:『日立鉱山史』)より買い受け、赤沢鉱業合資会社を設立
1902年
明治35
4月 日立村農業会設立
9月28日 大暴風雨。倒壊家屋11戸、死者3人。日立村本山の三本杉のうち2本倒れ、一本杉となる
10月1日 松原警察署、高鈴分署を廃し、助川巡査部長派出所と改める
1903年
明治36
2月 会瀬漁業組合設置
10月 郡会議員選挙。日立村遠藤靖、高鈴村長山萬次郎当選
1904年
明治37
4月 日立、高鈴村会議員選挙
1905年
明治38
4月 日立漁業組合設立
1906年
明治39
4月27日 高鈴村長長山重夫、日露戦役の遺家族賜金の件で暴漢に襲われ、死亡
6月 日立村本山に日立第二小学校設置
1907年
明治40
2月 日本産業ゴム(株)林業部製材所を助川駅附近に設置
2月 日立、高鈴両小学校に農業補習学校を設置
6月 関清英、助川にセメント製造所を設ける
1908年
明治41
2月 赤沢郵便局を日立鉱山郵便局と改め、電信・電話を開通
4月 大雄院と耕養寺が合併
5月24日 日立鉱山本山の古田飯場を襲撃した土工2名を取り鎮めようとした日立鉱山請願巡査宮田真六、殉職
10月 日立鉱山で使用する水を高鈴村助川の腰の塚・富士山下から分水しようとする計画に、助川の農民は非分水派と分水派とに分裂し、政争に発展
10月 助川郵便局、下宿に新築
11月18日 日立鉱山軌道電車開通(工事竣工・使用認可:11月26日 ref:『日立鉱山史』巻末年表)
1909年
明治42
2月 日立鉱山第三小学校を杉本に設置
2月 日立青年団発足
3月 日立鉱山事務所、大雄院に移転
4月1日 日立村医に遠藤千代之助を依嘱
5月 本山郵便局開設
9月 日立鉱山工作課、大雄院に移転*
9月 日立鉱山夜学校開校
9月 高鈴村助川八幡清水に高鈴梓人勧戒碑を建立
10月 高鈴青年団発足
1910年
明治43
1月 高鈴村役場を土佐(現幸町2丁目附近)より現林業(日立鉱山で使用する材木の集積場所・製材所)辺りの栄町東端に移転
3月12日 大暴風雨で漁船遭難。高鈴村会瀬の漁夫17人、行方不明
4月 日立・高鈴村で村議選挙
8月11日 豪雨。助川池の端(池は現市役所敷地となる)附近の住宅が3戸押し流される
11月 日立鉱山附属修理工場、工作課を芝内に移す
1911年
明治44
1月 日立警察署人員配置 巡査部長1名、助川所在地に巡査2名、日立所在地中山に巡査1名、鮎川駐在所に巡査1名、国分駐在所に巡査1名、河原子駐在所に巡査1名、坂上駐在所に巡査1名、大雄院請願巡査に部長1名、所在地に巡査1名、芝内に巡査1名、本山に巡査2名
2月 助川郵便局電信が開通
5月 日立信用購買利用組合設立
10月 郡会議員選挙。日立村遠藤靖、高鈴村長山季雄当選
1912年
大正元
7月 高鈴村役場内金庫破られ、現金盗難
12月 日立村消防組設置
1913年
大正2
3月 日立電気株式会社設置
4月 日立、高鈴両村会議員選挙
8月8日 日立村滑川の観音院に強盗、堂宇焼失
1914年
大正3
3月 日立村に多賀仏教会設立。会長大雄院住職原暁堂
5月 日立電気営業開始。日立・高鈴に電燈
5月10日 神峰神社祭礼日、陰暦4月10日を陽暦5月10日に改める
10月 助川駅(現日立駅)舎移転
10月14日 この月より日立村宮田新町に毎月会計店の市が立つ
1915年
大正4
3月 日立ホーリネス教会設立。信徒35人
9月 高鈴村消防組設置
11月 日立村浜の宮公園に福島安正書の乃木将軍の碑建立
1916年
大正5
2月 日立鉱山郵便局を杉本に移転、電話開通
5月 日立村県是実行組合設立
1917年
大正6
4月1日 助川巡査部長派出所を松原警察署助川警部補派出所に改める。請願巡査は18人
10月1日 大暴風雨。家屋倒壊、死傷者を出す
1918年
大正7
2月3日 助川局電話開通
4月 日立村の小学校改称。宮田は第一、本山は第二、大雄院は第三、駒王は第四小学校となる
6月 日立第五小学校(現仲町小)開校
7月 日立工場消防隊編成
9月 日立村役場、神峰神社西側(現郷土博物館)へ新築移転
11月20日 滑川の観音院、再建
1919年
大正8
3月12日 助川警察分署新築起工(10月開庁式)
4月1日 松原警察署助川警部補派出所から松原警察署助川分署と改組。初代分署長に警部補が任命。刑事1名配置
6月 日立村教育会設立
9月25日 県会議員選挙。日立村遠藤靖当選
10月 郡会議員選挙。日立村小沢義人・佐藤茂助・遠藤浜次郎、高鈴村立花富次郎当選
12月 日立鉱山、日立製作所に労働者団体友愛会が組織され、従業員解雇反対運動が起る
1920年
大正9
2月 日立製作所に労資協調機関の温交会が組織される
5月8日 松原警察署助川分署を廃し、助川警察署設置
9月17日 高鈴村助川下宿に聖公会講義所開設。信徒30人
10月1日 第1回国勢調査。高鈴村の世帯数2090戸・人口8400人(男4225人、女4178人) 日立村の世帯数6108戸・人口2万5265人(男1万3016人、女1万2249人)
12月 神道修成派第九教務支局が開設。信徒30人
この年、日立鉱山、第一次大戦終結に伴い外国火薬の払下げを受け、日立村大字滑川字烏ヶ沢に火薬庫を設置。これに伴い火薬庫巡査駐在所を設置(6ヶ月後廃止)
1921年
大正10
3月 日立第5小学校(仲町小)、日立第4小学校(駒王小)に統合
4月 日立・高鈴両村会議員選挙
6月 扶桑教(富士信仰を基盤とする神道教団のひとつ)の教会が日立村に開設。信徒50人
6月 日立製作所日立工場内に日立工手学校設立
7月 高鈴村助川下宿に常磐銀行(現常陽銀行)日立支店開設
9月 日立村大字宮田桐木田に日立製作所第1グランド完成
1922年
大正11
3月17日 日立村宮田本町で火災
9月12日 日立村宮田に徳風幼稚園開園
10月3日 句仏上人(真宗大谷派第23世法主大谷光演)高鈴村助川へ
1923年
大正12
2月 高鈴村役場新築移転(幸町1丁目9番附近)
3月 郡制廃止
9月 県会議員改選。高鈴村会瀬の大内竹之助当選
1924年
大正13
8月 高鈴村大字助川字山根の大聖寺附近一帯に日立製作所は電線工場を建設
8月26日 日立村、町制を施行。戸数4198戸、人口2万1254人
1925年
大正14
1月1日 高鈴村、町制施行。助川町となる。戸数2206戸、人口9660人
4月22日 日立町と助川町で町会議員選挙
1926年
大正15
6月 日立製作所、第2グランド完成(現駒王小学校敷地)
7月 日立町と日立製作所日立工場に青年訓練所開設
7月 日立農業補習学校は日立農業公民学校へ
12月 日立鉱山と日立工場に健康保険組合設立(12月18日 設立認可 ref:『日立鉱山史』)
1927年
昭和2
3月 助川町の上宿に私立東海女学校開校(6月26日開校式 ref:茨城県立第二高等学校ウェブサイト)
4月 日立町に県立日立中学校開校
9月 助川合同運送株式会社設立
10月 日立鉱山内に日立電力株式会社創立
12月 日立電気株式会社は水浜電車株式会社に吸収合併。事務所は日立営業所となる
1928年
昭和3
3月 日立製作所、徒弟養成所を廃し、日立工業専修学校へ改組。日立工手学校は研究科となる
3月 東海女学校は東海高等女学校に編成替え(2月9日 ref:茨城県立第二高等学校ウェブサイト)
1929年
昭和4
4月24日 久原鉱業株式会社、日本鉱業株式会社と改称(1928年12月29日、久原鉱業株式会社を日本産業株式会社と改称。1929年4月24日、日本産業の鉱業部門が独立し、日本鉱業株式会社を設立 ref:『日立鉱山史』)
5月17日 助川新道(現日立銀座通り)の丸和百貨店火災、焼失
6月12日 日立銀行、金融恐慌により休業
8月19日 ドイツの飛行船ツェッペリン号、日立・助川町上空を通過し、霞ヶ浦へ
1930年
昭和5
8月 日立製作所海岸工場の製罐工場竣工
12月7日 助川町新道通り(現日立銀座通り)の2間への拡幅工事竣工
1931年
昭和6
3月 助川裁縫女学校、助川高等家政女学校を併設(裁縫女学校は1943年に閉校 ref:明秀学園日立高等学校ウェブサイト)
5月10日 神峰神社の例祭に16年ぶりに風流物が演じられる
8月 日立方面委員事業助成会創立
1932年
昭和7
7月 常磐無盡株式会社(ときわ相互銀行、現東日本銀行)、助川支店開設
1933年
昭和8
3月 茨城無盡株式会社(茨城相互銀行、現筑波銀行)、助川支店開設
5月 助川町下宿に救世軍会館開館
10月1日 水戸、日立間に初の乗合バス開通
1934年
昭和9
4月 日立町諏訪台に桜塚碑が建立
4月 日立町桐木田に日立武徳殿が竣工
9月1日 私立東海高等女学校は日立助川組合立となる
9月 助川町商工会設立
1935年
昭和10
1月10日 日立製作所日立会館の開館式挙行(日立会館は45年の空襲で焼失)
7月 日立助川米穀商組合、時計小売商業組合設立
9月24日 日立鉱山本山の石灰山社宅、大雨により崩れ、死者30人をだす
1936年
昭和11
4月1日 日立助川組合立東海高等女学校、県立となり、日立高等女学校と改称
11月 助川方面委員事業助成会創立
11月10日 日立瓦斯株式会社設立
1937年
昭和12
2月 日立町と助川町に都市計画決定し、市街地建築物法が適用
1938年
昭和13
1月 日立製作所、日立病院が助川町に開院
6月 茨城貯蓄銀行日立出張所が助川町仲宿に開設
7月 助川職業紹介所設置
9月 日立助川洋服商業組合及び多賀鉄鉱機械器具工業組合設立
1939年
昭和14
3月31日 助川上宿巡査派出所・寿町巡査派出所・本町巡査派出所設置。日立諏訪台・河原子・鮎川・国分各町村巡査駐在所を廃止して河原子・油繩子・下孫に巡査駐在所を設置
4月1日 下孫巡査駐在所を廃して多賀巡査部長派出所を設置
同日、河原子町・鮎川村・国分村が合併して多賀町が誕生
7月10日 助川町旧東海女学校を仮校舎として多賀高等工業学校開校(現茨城大学工学部)
8月 助川警察署を日立警察署と改める
9月1日 日立町と助川町が合併して日立市誕生。世帯数1万5219、男3万8296人、女3万5308人、計7万3604人
 同日 2等局日立郵便局開設
9月25日 県会議員選挙。皆川清(政友会)、大窪喜太郎(政友会)当選
10月24日 助川駅を日立駅と改称
12月18日 日立中山・東町巡査駐在所を廃し、大和町・仲町巡査派出所を設置
1940年
昭和15
5月13日 会瀬巡査駐在所設置
5月15日 日立火力発電所が常陸セメント北側に設立。工費550万円、発電能力毎時1万キロ、1日20万キロ。これに要する石炭1日300トン、時価90万円。従業員90人毎年渇水時の12月〜3月に運転
8月 日立市に日立水道株式会社設立
12月2日 久慈郡中里村大字入四間字木の根坂を管轄区域に編入
1941年
昭和16
2月 坂上村巡査駐在所を水木巡査駐在所と改称
5月 多賀町巡査部長派出所を警部補派出所に改める
7月 日立水道、給水開始
9月
日鉱の賃上げ問題によって朝鮮人は大挙して鉱山事務所に押し寄せ、大雄院巡査部長市川三郎他三名の警察官警備の為に出動したが小勢の為侮つて暴力を行使しようとしたので危機に陥入つた。急報に依よつて多数の武装警官が出動して、トラツク三台に七十数名を検挙した、その内十数名は体刑を受け他は本国に送還された。
1942年
昭和17
4月1日 水浜電車日立営業所は関東配電株式会社に統合
9月 家庭防火群が編成される
10月 防空監視所・防空壕・防火服装が普及
1943年
昭和18
1944年
昭和19
5月 「米機の来襲を見るに至った」
6月 日立市の戸数1万7446、人口9万3082人
10月1日 日立保健所開設
1945年
昭和20
6月10日
午前9時日立工場を中心に山手工場その他、数ヶ所に一トン爆弾560ヶ、外に五瓩弾多数が投下されたが前日三笠宮殿下工場の視察をなされ翌十日は代休日であつたので人員の被害は割合少なかつた。市内海岸工場内では、五〇八ヶの一噸爆弾が投下され、その内、二七ヶが不発、損害は工場九分通り破損し、被害人員九〇一名(死亡六三四名、重傷者三三名、負傷五四名、行方不明一八〇名)であつた。
7月17日
午後十一時頃降りしきる雨の中、日立海岸沖合から艦砲射撃を受けた、市民は怯々とし落付かず疎開する者は、日々道路に列をなして、人心の不安は益々加わつた。
7月19日
午後十一時頃より二十日払暁にかけて米機は日立市に来襲して、焼夷弾攻撃した、市街は炎々としてその九割一〇四三四戸を焼失した、半焼、全壊七七七戸、死者一二一人(男九九、女二二)、負傷者四一〇人あつて焼野原と化した。日立警察署を始め各官衙、学校、一般家庭家屋建物等は殆ど焼失し一目荒茫とした廃墟となつた。
*7月19日の欄に日立警察署、署長官舎、演武場、物置、巡査派出所の被害が記載されている)
9月20日
日立市警察署の庁舎復旧は焼失した敷地に軍用機献納基金として集まつた七万八千九百余円と一般寄附、一万六千余円計九万五千余円と外に県費八万八千円を以て、日製青年学校の校舎一棟を譲受け解体した校舎を署員の労力により田手沼より運搬して、釘、セメント、木材の不足分、硝子、屋根瓦、鉄板その他の不足材支給の契約により田手沼、小林建設出張所長岩上国治の手で本庁舎二階建一棟[中略]を昭和二十年九月二十日着工、同年十二月二十日竣工した者である。

9月 日立市人口2万8700人。7月30日の調査によれば、戸数6485戸、人口3万68人(男1万5060人 女1万5008人)
10月8日 アメリカ第11軍団第43師団第517野砲大隊690人、多賀町の日立製作所鮎川工場を兵舎として多賀・久慈郡を管轄
10月14日
 進駐軍の命による昭和二十年九月二十日勅令第五四二号により左記警察職員は休職を発令された。
特高関係 警部補中野、巡査部長辺田、巡査久保田、同山口、同小祝
憲兵関係 同持田
11月3日 日立電線工場に勤務していた神永金二郎によって神永電線工場が市内上町に創業
11月13日
  市内外国人居住状況
国籍別 男  女  計  内鉱山労務者
朝鮮  889 653 1542  1148
台湾  1  —  1     —
中国  792 1  793   766
  日立鉱山本山・大雄院捕虜
国籍別   本 山  大雄院  計
アメリカ  140   —    140
イギリス  60    2    62
オランダ  100   50    150
インドシナ —    250   250
 計    300   302   602
1946年
昭和21
1月30日 前年10月14日に休職を発令された特高関係職員5人に退職が発令される
3月31日 前年10月14日に休職を発令された憲兵関係職員に退職が発令される
11月18日 天皇、日立製作所・日立鉱山・宮田小学校の復興状況視察
12月11日 大雄院捕虜収容所長陸軍大尉加藤、戦犯として東京新宿において逮捕
1947年
昭和22
1月 婦人警官、初の配置
4月 旧日立町役場裏一帯を買収して、展望公園建設に着手。総面積3万5000坪、市民グランド(4000坪)、動物園・児童遊園(1500坪)等を設置。1957年完成予定。1954年1月現在まで168万を支出
6月3日 助川町土佐の食糧公団倉庫から押小麦1俵を窃取した犯人3人、検問中の警察官の拳銃を強奪
9月16日 カスリーン台風。宮田川洪水。大雄院紅葉橋に流木がかかり、さらに土砂崩れが起り、大雄院小学校一帯に氾濫。死者27人、流失家屋21戸、倒壊家屋35戸。罹災者1357人。死者の多くは海岸に漂着。雨量、9月13日20時〜15日22時106ミリ。9月15日22時〜16日2時162ミリ。
9月25日 県会議員改選。大部市郎当選
9月30日 日立水道株式会社の事業が市営となる
11月30日 武徳会(明治中期に武術の作興と国民の士気を振作する目的で設立された団体)関係で林田警視日立警察署長、公職追放
12月17日 警察法公布
1948年
昭和23
1月15日 公安委員3人(日立市滑川大和田環資・助川横田兼吉・宮田斎藤巖)を選任
2月6日 日立市警察署と改称
3月7日 警察法施行。日立市警察吏員定員67人。人員縮小により本町・駅前・会瀬巡査派出所を廃し、会瀬第1・第2巡査駐在所を置く
5月1日 1万人が参加したメーデーで、日立市警察署員2人が万城内で警察手帳を提出させられる
8月7日 朝鮮救国人民大会で占領政策を誹謗したとして村上日本共産党教育宣伝部長を検挙
8月22〜31日 日立郵便局内全逓労組日立支部員公務員法に反対して職場放棄。政令違反として組合員ら40人検挙
8月24日
日製電線、電産、全逓各労組の共産分子は五百名のデモ防衛隊を作って、政令違反者の蝦名他二名を壇上に立たせ反対闘争演説をさせ、進駐軍ウオータース大尉は、警察署長に即時逮捕を命じたので二ヶ小隊が出動した為警察吏員と群集との間に衝突が起りこの為、双方四十名位の負傷者を出し、犯人は逮捕したが五千人の労組員は犯人釈放の交渉を行つて、大会を署の南側の道路で行つた事件があつた。以後連日に渡り労組員は大挙して警察署え犯人釈放方の圧力をかけた事件があつた、県の米軍政官ウオータース大尉から検挙に対して表彰を受けた。
1949年
昭和24
3月30日 日立市警察署長に国家地方警察日立支所長警部青木乗誠警視着任
3月 日立市役所内にあった日立保健所、新築移転(幸町2丁目9番地)
8月25日 共楽館においてNHK「のど自慢素人演芸会」中継放送
11月4日
   ◎本山高鈴朝鮮人学校接収問題紛糾
朝鮮連盟(委員長権)日立支部が民族教育の為、朝鮮人教員一名により、日立市宮田本山高鈴飯場内で三十二名の朝鮮人児童に授業を続けて来たが、政府の閉鎖命令に基いて斎藤多賀地方事務所長一行が同所に赴いて責任者権等にこの旨を告げたところ、居合わせた黄等は直ちに日立市内及入四間部落連盟員に電話等で連絡した為午前十時頃より逐次集合して来た男女約百六十余名が閉鎖の手続を頑強に妨害して容易に応ずる気配がなく執行不能に陥つたから警察の出動応援方をお願いしたいと云ふ地方事務所長からの要請があつたので、全署員に出署待機を命じ午後二時三十分青木署長は私服巡査部長一名巡査二名を伴つて現地に急行し実情を視察した処冷雨降り注ぐ夕暮に婦女子も交え然も断崖上の狭路に対峙して居り一歩誤れば死傷者を出す虞もあつたので、全員を学校内に入れて懇々と説得した結果、閉鎖について納得したので実力行使一歩前で無事接収を終了した。
10月11日
   ◎日立市長軟禁事件
ドツジラインの影響で民間企業の整備が行われ、失業者は全国的に急増した。当市は失対事業法に基いて昭和二十四年十月十一日から、予算百六十二万円を計上して神峰公園の整地外四ヶ所に事業を起し失業者五十名を吸収、更にその増加によつて労働省に陳情して十一月一日より百五十名、翌二十五年一月より二百二十五名と枠を拡大したが、就労希望者は毎日相当数のアブレを出して居つた。
11月16日
 この様な情勢下に日共オルグの指導の下に神峰現場で失業反対同盟が結成され委員長円城(日立市本山石灰山社宅)副委員長金委員八名を決定した。(組合員一一二名)
1950年
昭和25
1月
 失業反対同盟は市長に対し 1.アブレのない様に三百人の完全就労 2.賃金男子二百五十円 女史二百円 等の要求を提出し、一月二十一日迄三百名の枠を認めさせたがその後も連日交渉をつゞけた。
2月2日
 アブレた四十二名が午前九時四十五分市長に面会を求めて押しかけ、十時五十分頃から市会議長室で代表者円城外二名と市長助役、民生課長等が會見し交渉を持つたが結局要求を拒否されたので、
 川子 中川(高萩町日共多賀地区委員)
 徐(当時旧朝連茨城県支部長)
等は制止を無死して「交渉打切る気か」と迫り且各現場に動員をかけ午後一時五分市長が市長室に入いろうとしたのを取囲んで要求を繰り返し、各現場から押かけた群集二百名は市長室を取囲んで怒号し形勢不穏となつたので、午後一時三十八分市長は交渉打切りを宣し退去を要求した上秘書課員等によつて辛うじて市長室に引上げたが、群集は「市長を逃すな」と叫びながら市長室の窓硝子を押開けて乱入し市長を取囲み軟禁状態にしたので、市長は遂に己むなく午後二時二十分警察官派遣の要請をした。青木署長は事態を極力実力行使をせず解決しようと公安委員に連絡の上二時四十分川村警部補外十名を派遣して警告させたが効なく形勢はせん延を許せない実情となつたので、午後三時四十分署長陣頭に川村警部補以下四十名が出動し秘書課に通ずる廊下附近に居た群集の妨害を排除して秘書課に軟禁状態にあつた高島市長を救出すると共にこの事件で当署警備課員中根巡査に暴行を加へた。
同盟委員長 圓城
を公務執行妨害並に不退去罪現行犯で
 同組合員佐藤
外四名を何れも暴行及不退去罪現行犯として検挙、更に之等の取調に基き同日同盟副委員長の金泰坤25を緊急逮捕した。
5月8日〜8月10日
   ◎日製人員整理に伴う大争議発生
 一、当時の状勢
 ドツジラインの影響で日立製作所(資本金二二億円、傘下工場等二二個所、従業員三二、〇五九名)は経営難に陥つて居つたが、日製総連は産別及全金属労働組合の傘下にあつて同年三月二十七日第五十六回中央代議員会で新賃金一萬二千円の要求を決定し四月五日会社に申入れたところ、五月八日会社は賃上の不可能と企業整備合理化の為、己むを得ない処置としで五、五五五名の人員整理を通告した。
5月9日
 管内日立工場は従業員五、六二七名に対し六五五名、電線工場は一、四〇一名に一七七名約一割三分の整理を労組側に通告したので、即日執行委員会が開かれ馘首反對賃上要求貫徹を決議して産別、全金属の牙城と云はれた日立労組は三ヶ月に亘る苛烈な闘争の火蓋を切つた。
5月10日
 水戸、多賀、日立、電線各労組は職場を放棄して日立工場正門廣場に総けつ起大会を開催した。
5月12日
 茨城四工場で茨城地区闘争本部最高戦術専門委員会を設置、日共も同日中央に日立争議指導部を茨城地区に地方対策指導部を設置して全面的に介入し、連日「整理案の撤回賃上回答」等で各職場で部課長に対し吊上げが繰返され、日共の所謂地域解放人民闘争方式戦術を採用し随所に一揆的様相を呈した。この事態に対して青木署長は玉村公安委員長外公安委員との間に緊密な連絡をなしつゝ署員(当時六七名)を督励し綿密周倒な視察と情報蒐集に全力を竭し、会社側は駒井、前原各工場長始め部課長は各種の挑発戦術にも隠忍自重して争議の解決に努力が払はれた。
5月20日
 交渉打切り希望退職募集(本社〜総連合)
5月23日
 一、三〇〇名希望退職受付締切る(全社で)
5月24日
 解雇者個人氏名発表及通告(本社〜総連合)
5月29日
 解雇者氏名を組合え通告したが、組合側は青年行動隊或は地域闘争本部等の組織下に社宅の婦女子等を動員し会社通告の妨害が到る処で行はれた。
 この間行はれた戦術の主なものは
1.地獄のおけさ(音響神経戦術)
2.熱砂の誓い(炎天下屋外長時間吊上げ)
3.雨のブルース(雨中赤旗を持たせて走らせる)
4.子抱かせ吊しあげ(泣落し戦術)
5.職場を交流した吊上げ(情実排除のため)
等があり、これ等闘争の過程で争議行為が法を越脱した非合法悪質事案について確証を把握しながら機の熟すのを待つた。
6月23日
 状勢は遂に断を下す時期が来たので一気に電線工場関係暴行事犯で
 柴田大丈当時二十一年(闘争委員)外十二名を検挙。
7月6日
 日立工場関係暴行及住居侵入等の事犯で小林当時三十六年(当時副執行委員長、最高闘争副委員長)外十一名を検挙した。
7月7日
 午前五時を期し日立工場はロツクアウトを実施したが、労組側は無期限ストで対抗した
7月14日
 拡大闘委を開き多数で会社案を呑むことを決定無期限ストを解除すると会社側に通告して解決えの一歩を踏み出した。
 午前〇時五分会社側と妥結して調印した。
 争議開始以来七十四日ロックアウト以来十四日目であつた。
7月20日 日立市仲町小学校は戦災をうけ仮建築で授業を行ってきたが、疎開者の復帰とともに校舎が狭くなり、増改築工事に入る(翌51年3月完成)
8月10日
 東京本社と総連合に最後的調印を終つて苛烈を極めた争議は終結した。
 この間警察官の動員は六四回、延人員四、二八九人、出動回数二八回、待機十六回、延一一、三〇〇人に達した。
1951年
昭和26
3月21日 県議会議員選挙。日立市で大部市郎・関定蔵当選
5月1日 関東配電株式会社は、東京電力株式会社日立営業所となる
5月24日
 日立市殿内(共)員佐藤をマ指令違反によつて検挙した。
6月28日〜8月16日
 日立自由労働者二百名は大挙して連日市長に対し、賃上げその他数項目を要求して情勢不穏の為、警備を固めて事態を未然に収拾し事故を起さずに済んだ。
8月16日
 会瀬稲荷山に自由労働者二百名が集合し、反戦大会を開かうとしたので、不許可集会として解散させたが、引続き朝鮮人李貞植の指導に依る数十名が市役所に強制送還反対を叫び不穏の行動に出ようとしたので、一分隊十一名を出動して退去せしめた。
12月20日〜21日
 日立自由労働者、二百名が市役所に押し寄せて市議会に圧力を加え様とし、更に自由労働者等は会瀬の高島市長自宅に、大挙して押しかけ面会を強要し、病臥中の市長を襲つたので当署警察員出動して退去せしめた。
12月27日
 自由労働者約二百名が、日立職業安定所に集合して完全就労を要求したので職安よりの要請によつて署員二十名を出動して解散せしめた。
12月 戦災によって仮建築で授業を続けてきた宮田小学校、増築
12月 平和通り着工。1952年5月竣工。53年12月から舗装工事着手、54年6月段階で工事中。
1952年
昭和27
1月 石崎高雄経営の市民会館、日立市及川町に竣工。共楽館に次ぐ大きさ。のち松竹映画劇場の経営となる。
1月15日
 民団日立支部結成式に当り、従来旧朝連総務部長河外五名が民団へ加入したのを憤慨した北鮮系朝鮮人約八十名が発会式の妨害を企図し、会場に押しかけ、侵入しようとし乱闘となつたので、当署員約八十名及高萩地区署と多賀地区署より応援を得て、午後二時二十五分解散させた。
1月23日 仲町巡査派出所、新築移転し、本町巡査派出所と改称
 二月二十一日之が開所式を挙行し市の北の門戸を固めることがが出来た。
2月25日 日立製作所50年争議、水戸地裁判決。小林ら23人に罰金刑など有罪判決
4月17日 大和田ら7人を連合軍指令に違反して「連合国に対する破壊的批判記事を掲載した」『平和と独立』(1952年1月31日 第9597号)その他を配付したとして検挙
5月1日 メーデー
 日立自由労組、日共日立委員会、日立市在住北鮮人等約三百名が集合し市内のデモ行進を行い県本部より六十名が応援待機した。
5月1日 日立駅舎新築なる
日立新駅は市に於て二五〇万円の負担により予算約一千万円を以て東京鉄道工業株式会社の手により新築され、日立市の玄関として威容を添えた。
5月3日 16ミリ映写機を19万5000円で購入。「警備事件に際して証拠保全、その他に有効に活用され、その効果は多いにあがつた。」
5月30日 破防法粉砕大会。日立職業安定所前に自由労組員約250人が集まり、日立製作所海岸工場労働会館と日立市役所へ
6月17日 破防法粉砕大会、労働基準監督局裏の広場で開催。
約三百名の日共労組及び約百名の北鮮人が日製海岸工場海下門前に於てデモを行い労働会館に乱入しようとした為警戒の当署員及び県からの応援部隊に阻止された為海下門守衛所え火炎壜三本を投入更に投石をして逃走
7月1日 日立土地会社の事務所新築移転
8月21日 日立市天気相談所設立
8月 桐木田及び諏訪台アパート建設。県営ブロック8戸建て一棟、市営鉄筋コンクリート24戸3階建て一棟
1953年
昭和28
1月29日 日立市庁舎建設に着手(工事契約)。2月26日起工式。10月16日上棟式。第1期工事は54年3月末完成。「総工費は五、三〇〇万円で市庁舎としては近県にない立派なものと評判が高い。」
3月10日 日立駅前巡査派出所完成、開所式
3月 助川下町国道の拡幅工事完了
下町商店街の拡張 昭和二十六年十月頃より都市計画の一環として、従来巾員七米の国道を二十米とし主要道路の拡張を開始
4月19日 衆議院議員選挙、塚原俊郎・川崎猛・大高康当選
4月24日 参議院議員選挙、地方区で宮田重文・武藤常介当選
5月1日 メーデー
 自由労働者及び北鮮系朝鮮人等約二百四、五十名が参加し、市内をデモ行進し神峰神社附近に於て解散した。当市警では万一の事態に備え、全員八時に出署し部隊編成をなして準備の万全を期した。何等の不穏行動も発生せず午後二時頃終了した。
5月10日
 神峰神社祭礼は十八年振りで復活したので、花車その他の風流物が出て人出約十五万人、その盛況さは空前であると云われた。当市警は此の祭礼のため雑踏取締警戒班を編成して午後十一時半迄警戒に努めた。
5月
 新国道[けやき通り]の新設計画は昭和二十三年より始められ、その進捗緩慢であつたが昭和二十八年五月になつて歩道の整備と弁天池の一部埋立によつて整地され、爾後著しく進んだ。市内の平和通り及び旧新道[銀座通り]との交叉点附近は特に繁華街となる事を予想されてゐる。
6月19日 数沢川の付替工事
 数沢川は降雨に際し急激に増水して被害があるばかりでなくその下流は峡谷をなしてゐるので、これを埋立て住宅地とすべく都市計画の一環として之が付替工事を計画し実施したものである。昼夜兼行で工事を急ぎ二十九年三月三十一日竣工した。市役所側よりトンネルを以て現在の国道の下を通り桐木田社宅の南を抜けて宮田川に入る延長三百十米余である。総工費約二十万円と云われる。
7月1日
 午前十時頃、自労組は夏季闘争の手段の一つとして市役所に押しかけ夏季手当の要求をなし不穏な事態の発生に備え全員非常召集をなし、部隊編成をして待機したが何等事なく午後三時解散した。
7月10日 田中栄一警視総監来署
8月 日立セメント工場、煙突建替と防塵装置を設備
 セメント工場は従来再三に亘り設備拡張を行つたが、現代建築用材の花形だけに需要に追はれて生産に間に合はない状況である。拡張に伴ひ塵埃の飛散益々激しくなつたので工場に於て巨費を投じ、コツトレル防塵装置を取付その幾%かを除却してゐるが、完全には至つてゐない。
10月8日 日立市公民館竣工
11月26日 中小路小学校火災。524坪を焼失
12月14日
 午前二時、全員非常召集、部隊編成の上高萩駅に向かい、青森発準急上野行に乗車、高萩〜日立間の主食一斉取締を実施して精米約六十俵を押収した。
12月15日
 午後一時、自由労組約三百名、之に勝田、高萩、水戸、土浦より各二名宛応援が来て気勢を揚げ、不穏の動向があつたので職業安定所長の要請によつて当署員七五名が出動し退去解散せしめた。
12月23日
 自由労組、百五十名を動員して市役所に押かけ、年末手当の要求をなし気勢を揚げ行動不穏の形勢になつたので全員非常召集部隊を編成して、待機したが、午後六時三十分解散したので出動に至らなかつた。
12月25日
 朝鮮人、パチンコ業者滞納整理。
不納同盟を結成し、十万円の滞納者金外一件に対し高萩地方事務所、県税務課員により滞納整理を強行した。此の間万一の事態に備え全員を待機させたが事故なく終了した。
1954年
昭和29
2月7日 日立・土浦間駅伝競走
4月11日 日立ネオン祭、相馬の馬追い等、人出4万人
5月1日 第25回メーデー
自由労働者約四百名位は市内デモ行進を実施したので、不法事態発生に備え全員召集し部隊編成して待機したが事故なく終了した。
5月15日 日立市庁舎落成式
6月30日 日立市警察解散。翌7月1日から茨城県警察に編入

1945年までは正直退屈な記事が続く。やむを得ない。1945年の空襲で警察庁舎を焼失して、記録も失ったからである。ではどうしたかというと「諸先輩の好意によつてわずかに残る記事の断片を集め或は郷土史によって参考資料を得て」まとめたのだというが(「編纂について」)、出典が示されていないのどのようなものか、わからない。

1948年以降とくに署長に青木乗誠が着任した49年から記事が豊富になる。どのような記事が増えるかというと、労働争議あるいは社会問題への警察の介入記事である。着任まもない49年11月4日の朝鮮人学校接収問題での青木の武勇伝は象徴的である。もちろんそればかりではない。本項には掲載しなかったが、警察の諸施設・設備の整備の記事も多い。それは警察内輪の話だから本項には載せなかった。青木は54年日立市警察署が解散するときの署長で、本書の編纂・発行の責任者でもあり、市警解散と同時に高島日立市長に請われて日立市の消防長に就任する。警察から消防への転身である。このとき48歳。足掛け6年にわたり日立市警察署長の任にあたった。通常は2、3年の椅子。異例の長さである。なお青木乗誠については、鈴木茂男『日立街史』(1988年)が経歴を紹介し(86頁)、なおいくつかの記事を載せている。

蛇足だが、敗戦直後に特高警察と憲兵職員が休職から退職を命じられ、47年には武徳会関連で署長が公職追放されるが、それ以後は一転して戦前と変わらない労働運動、社会運動の弾圧の記事が続く。占領政策の転換、いわゆる逆コースである。