日立鉱山煙突比較
日立鉱山は1908年(明治41)に山あいの採鉱所のあった精錬所を移すにあたって常磐線と採鉱所との中間地点を選んだ。そこにあった曹洞宗の名刹大雄院を移転させ、その跡地に中央精錬所を建設したのである。銅の生産量の増大にしたがって排煙も増え、それに含まれる亜硫酸ガスが引き起こす煙害問題、その解決のために次々と煙突を建てた。建設順に紹介する。
以下、中澤稔・井原聰「日立鉱山煙害事件の技術史的再考」(『茨城大学教養部紀要』第15号 1983年)による。
種類 | 高さ | 口径 | 設置 場所 |
使用期間 |
八角煙突 | 64尺(推定) (約19m) |
16尺(約5m) | 製錬所裏山 | 明治41年(1908)〜神峰煙道開通 |
神峰煙道 (百足煙突) |
製錬所から神峰山頂に向かう尾根づたいに15町(1664m)にわたりはうように延びる。 | 明治44年(1911)〜 大正4年(1915) |
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タンク煙突(命令煙突・阿呆煙突) | 120尺(36m) | 59尺(18m) | 製錬所裏山 | 大正2年(1913) |
大煙突 | 511呎(155.7m) | 基部35.5呎(10.8m) | 製錬所裏山 | 大正4年(1915)〜 |
左から神峰煙道、八角煙突、タンク煙突、そして大煙突である。
写真提供:日立市郷土博物館
神峰煙道について
抑もこの横煙道は、事務所や製錬所の従業員を毒煙から救う為に築造したので、神峰の山足の稜線を約二キロ山腹まで導き排煙したもので、この為入四間宿、笹目、沢平方面が全面的に犠牲になった。これが自他共に予期せざる大惨害を誘発し、遂に入四間宿の全部落移住説にまで発展することとなった。
関右馬允『日立鉱山煙害問題昔話』(1963年)
タンク煙突について
これ[入四間宿の全部落移住]に狼狽した鉱山は、直ちに製錬所の直上に、内径約一〇間と云う素敵な大口径煙突を突貫工事で築造し、大正二年六月に使用を始めたのである。所が、今度は濃厚な毒煙が湿度の高い無風の日には、事務所に蔽いかぶさって、所員、工員を苦しめ仕事も手に付かぬと云う羽目に陥り、短日月で使用中止と相成った次第。
関右馬允前掲書
入四間宿の集団移住議論経過
自給肥料(堆肥)にのみ依存していた農家が、その資源たる雑林の枯損で堆肥製造の途が杜絶すると云う事は、全く致命的の大打撃である。それに加えて間断なき毒煙で、作物の成育が絶望となっては生業を続けて行くには、他地に移住する外に方法が無いと云う悲観的な立場に追い込まれて、住民の動揺は深刻極まりないものだった。[中略]「金を貰っただけでは生業は成り立たないから自作農を経営し得る換地が欲しい、それも一部落離散せず一団となって移住したい」と鏑木先生[1]に交渉した。
しかし、県下にそんな地域が有ろう筈はなく、暫く経って鏑木先生から、栃木県那須野ならば集団移住が出来ると云う返事が来た。[中略]委員は、数次の会議を繰り返したが、さて愈々何百年か住み馴れた故郷を立退くとなると、おいそれと簡単に出来るものではなく甲論乙駁ごうごうとして決する術もない。[中略]そんな深刻な問題も、雲表に聳ゆるあの煙突が完成し、偉人久原さんの卓見が結実して、全部落集団移住説も立消えになり、我々委員が生死を掛けてと覚悟した杞憂も、雲散霧消した事は全く天佑と言わざるを得ない。
関右馬允前掲書
[註]
- [1]鏑木先生:鏑木徳二。明治16年(1883)石川県生れ。東京帝国大学農科大学林学科卒。明治42年日立鉱山入社。大正8年(1919)久原鉱業退社。大正12年宇都宮高等農林教授。その後朝鮮総督府林業試験場長、石川県立金沢第一高等学校長などを歴任。昭和42年(1967)歿。85歳。参考文献:日鉱記念館『鏑木徳二氏の生涯』