日立へ遠足

1962年(昭和37)10月12日、北茨城市の常磐炭鉱中郷礦の社宅の子どもたちがバス2台に分乗して日立にやってきた。時代は東京オリンピック開催の2年前、高度成長が少しばかり地方にも及んできた時期。今では想像もできない子どもたちのかわいらしさである。ともかくここに紹介する父親の同行記からは、子どもたちの楽しさが伝わってくるばかりである。

川尻の灯台を見学し、神峰公園にできたばかりの動物園と遊園地で遊び、そして平和通りのフードセンターで土産を買う、子どもたちに用意されたメニューである。勿論車中での合唱やゲーム、おしゃべりも遠足の大切な要素である。

 お父さんあと幾つ寝たら遠足と、毎日毎日子供に聞かれていた今日の日を、どんなにか楽しみに待ったであろうか数日来続いていた天気今日も良し。三番方から帰って見るともう子供は起きている。朝食もそこそこに売店前へ七時半集合。一号車には佐藤先生二号車には信田先生に引卒されてそれぞれに分乗。八時十五分出発一路神峰公園へと向かう。良い子の顔は皆嬉しそう。やがてバスは磯原街道に出た。車掌さんより朝の挨拶があり続いて美しい声で童謡が流れる。今度は区長さんの音頭取りで「どんぐりころころどんぐりこ」と歌えば皆一せいに歌う。まさに名タクト振り。

 やがて予定されていた川尻燈台に着き、記念写真をパチリ。またものバスに分乗歌と共にバスが走れば誰が吹くやらハーモニカと歌の合唱。誰が歌ったか子守歌あまり上手なせいか良い子の一人うとうとと眠る一コマもあり。私もすっかり童心にかえり小学四年生の頃、先生に引卒されて遠足に行った頃が想い出され思わず遠足の唄を歌う。小木津あたりに来ると道路は舗装中。おまけにせまくバスのすれちがいがやっとの位。まさに茨城名物陸の玄海灘の感。

 十時半頃ようやく神峰公園の頂上に着く。遙か彼方を見れば日立市と太平洋は一望眼下。市の人口約十八万とか。休憩後昼食。坑内でばかり食事をとる私には、野外で食べる味は亦格別の感。食后持参した教材でゲームを楽しむ。それから話題の動物園よりいろんな乗物に乗って遊び午后二時二十分公園を后にフードセンターに向う。来てみればあいにくと従業員慰安のため休業の告あり、止むなく丸和に向かい、各自思い思いの土産を求め三時二〇分日立を後に家路に向う。……

及川広吉「よい子の遠足同行記」『茨城礦業所タイムス』第307号 1962年12月1日

日立市はかつて行楽地だった

川尻灯台では、灯台そのものだけでなく、崖の上から見渡せる県北の海岸線の風景が観光の要素である。しかし公園と動物園、遊園地、そしてデパートは都市の構築物である。当時はこのような要素は茨城県北地域には日立市にしかなかったから、遠足地に選ばれたのである。

現代においては海は別として動物園も遊園地もそしてデパートに類するものは地方都市においてはありふれたものである。この時期、小木津の国道バイパス工事が進んでおらず、「茨城名物陸の玄界灘」と外部からは評判された川尻から折笠浜、小木津浜の海沿いの狭い国道を走る以外になかったが、高速道路網が整備された今、たやすく遠くまで行ける。

高度成長が始まったばかりの少し豊かになった時代においてだからこそ、日立は行楽地たりえたのだった。鉱工業都市日立市に観光課があるのは、そのような事情からに違いない。

風光明媚つまり変化に富み、壮大な自然につつまれた地域。あるいは千年のそうでなくとも三百年の歴史的景観が残る都市。これらが観光地となる。自然は与えられたものだが、歴史は人々がつくってきたものである。江戸時代以来多くの参拝者を迎える伊勢神宮。その寂れかけていた門前町は歴史的景観を三十年かけて復元したことによって、賑わうことになる。歴史的景観の維持と復元は人の手によって可能である。

日立市の場合はどうなんでしょう。