史料 備中国の地理学者がみた水戸領
三一書房版

古河古松軒が巡見使に随行して、天明7年(1787)年に奥州筋を巡った。その中から陸奥国との境常陸国久慈郡徳田村から棚倉海道を太田村から水戸へ出て、水戸海道を江戸に上る行程の途上の記録を紹介する。

古川古松軒と東遊雑記、幕府巡見使、底本、解説等については「備中国の地理学者がみた水戸領 古川古松軒「東遊雑記」から」を参照。


凡例

[本文]

[十月]十四日下關御發駕<是より常州三里、大中村休>、太田村止宿。

下關より南一里に兩國の界あり。堺の明神と稱せる少しき社あり。是より北は奥州白川郡大拱村。南は常州多珂郡徳田村なり。御巡見使三所とも、此所までにて御巡見の所々、滞なく相濟て御怡[よろこび]ありし事なり。

和漢三才圖會・増補日本行程記、此外一枚圖とせし地圖に行程などを引合見しに、大違ひの所多し。板となして世にひろむる書は大概には改むべきを、埓もなき事を記して人を欺く事不審の事なり。此所の大ぬかり村は何れの板にも、常州と記しあれど、奥州に違ひなし。

兩國の界[へ脱カ]は水戸侯の家士御馳走役として出迎ひ給ふ。至て嚴重の御あしらひなり。扨常州に入りて上國の風にみえ、人家のもやうもよく、百姓の妻子に至るまでも賤しからず。作業も出精せると見えて作物も見事にて、士をみて、禮をせざるはなし。小兒に至るまで平伏して、無禮の躰更になし。御巡見使御通行によって、新に被仰付もある事ながら、かねかね政事正しからぬ所にては、俄にならひ故に、終には不禮もある事にて、國の政事正しからぬ事の、他國の人もしる事ながら、常州に於ひては貴賤共不禮の體、更に見えず。予按るに、元凶公世に知る賢君にて國をおさめ給ひし事、普く世人の云事にて、此君の御遺風にて、かくまでもきは立、奥羽に勝れて見ゆる事也と、人々評判せし程の事也。當君も東都に於ひて賢君也と稱誉せる事也。

太田村二里に河内村と云あり。此地に玉簾と稱せる瀧あり。玉簾寺といふあり。古跡にして風景ある所なり。

久慈郡太田と云ふ所は水戸君の上大夫、中山備前守侯の御在所なり。御巡見使御門前御通行故にや、門の左右に[図略 中山氏の家紋枡形に月が描かれる]如斯の紋付し坪幕、數々打廻し、諸士のかたかた大勢御馳走として出むかひありしなり。其躰甚嚴重に見えし。此地は昔時、佐竹氏代々の御城地にして、大ひに繁昌せし所なり。此故に城も要害の地とみえし事也。今櫓もなく城門もなき故に、心なく見れは城とは見えぬ構なれど、佐竹左中將義宣の時に、故ありて羽州久保田へ所替にて、知行も減ぜし事なり。<事せき長く略しぬ。>太田の町千餘軒、大概の町なり。是より西八丁に西山村と云ふ勝地あり。此にして、奥の所は中納言光圀公御隠居ありし所にして、此君の賢徳は普く世人のしる事にして、西山遺事と號せし書に粗其徳をあらはせし事なり。今に久昌寺と稱する寺に光圀公御束帶の像を安置ありて、寺領五百石。學坊數多院には御法名の像あると土人の物語なり。太田の北に瑞龍山といふあり。此所は水戸公御代々御墳墓の地にしてよき寺なり。舜水先生の墓もある事なり。また西山への徑に桃源橋と稱す橋ありて桃の樹大ひに繁茂して名高き所にて、近き年奥州森山侯より碑石を建給ふとの事なり。此邊拜見所多きなれば、しきりに行見るおもひせし事ながら、御用先の身にて行事ならず。光圀公・舜水先生の徳は海内にてしらぬ人なし。その事跡ある地へ僅に八町といへども、心にまかせず。生涯の殘念なり。爰に於ひても、九州一見に下りし行脚の體こそ頼母し。

十五日太田御發足、五里枝川休、二里半長岡止宿。

太田より南一里、久慈川流るゝ。舟渡しなり。奥州白川郡より流れ落る。此邊の百姓家いよいよよし。此せつ稲を苅入るゝ時節にて、農業の躰を見に、國の風俗にて婦人かひがひしく、小兒に至るまでも、業を大切に勤る體なり。宿々に於ひても、御巡見使の事なるゆゑに、念の入料理なども賤しからぬ取組なり。兎角、味噌・醤油の味ひあしきには、人々困りし體なりと云ふ。光圀公の御時代より、民の奢を大に制し給ひ、分外の暮しをする百姓あればきびしく罰し給ひ、驕らずして家業に出精せる百姓は、案外に賞し給ひし事にて、友吟味にして、互ひに奢の道をかたく愼みし故、いつとなく國の風俗となりて、今にても味噌・醤油の味ひよきを食せる百姓は奢り者と云ひふらし、是等の事をもって萬事をおもふべし。頼母しき風俗ならずや。

此邊より、さゝ石・鼈甲石と稱せる奇石の出る山あり。街道よりは一里の寄りなり。

常州は北方には小山連り、太田へ出るまでは山の間を通行せる事なり。山畑には綿作を度々見かけし事なり。八月頃より冷氣ある風土にて、心よく綿のもゝロひらかず。夫ゆゑに綿木を根ぬきにして、柵を結びて、夫に綿の木を逆さまとし、日おもてに置て、綿のもゝ口をひらかすよし。一反にやうやう綿五貫目斗とると云々。

枝川、太田より五里。此所在町にて、町の南に川あり。中川と稱して、常州第一の川と云々。水上は下野國奈須山より流れ出る。<此所にては戌亥より辰巳の方へ落流るゝ川也>此川、水戸城の北の岸を流れ、要害の川也。川を過れば、わづか八丁にて水戸の下町と云ふに入るなり。一年の大水に町々大ひにいたみ、往來筋草ぶきの家數多にて、上方筋の城下よりも劣りし事なり。上町と稱せるも下町におなじ。世に東海道と稱せるは、伊勢國鈴鹿より初り、奥州・常州の堺、勿来の關にて終る事也。

海内を日の本と稱しはじめしも、いにしへ常陸の國を日立と書て、海内東方のかぎりなり。是によりて、日の本とも稱せしを、いつとなく海内の名とせしものなり。むつかしく利づめを書あらはせし書にあるまじ。後人の作説ありて、かゝる云ひ傳への埓もなきやうの説には實事あるもの也。日本の風俗ならん。予が信ぜる事とて、爰に又書加ふなり。

御城は聞しよりも大城にて、中川、御城の北の岸をながれ、大手は千波の池とて、大沼をもって要害とし、風景もよくて、中々よき御城と見え侍りしなり。遠見ながらも、郭内廣太ならんと、予が計りなす所なり。外に一枚圖あるをもつて、爰には略し侍りて、風景を圖せるのみなり。

枝川の休所へ藤田熊之助、予を訪ひて菓子など持參ありて、念ごろの挨拶あり。是は春方、紅毛の机覆ひを贈りし謝義にや。且、深切の志あることとうれしくおもひし事也。今度はじめて對面せしに、人物至てよく、未十五童ながら、聞およびし才子にて、萬事のふるまひ、言語さはやかにて、大人のごとし。赤水先生の物語りありしも、熊之助事は十三歳の時より、文章詩作、草稿なく筆をとるよし。終りに至る迄も、平生の人の俗文を書がごとし。古今かくのごときの童子をはいまだ聞ず。水戸公の御物語にも、中華の王勃十三童にして、滕王閣の文を書す。熊之助も十三童子にて文章をなす。是をもっておもふに、和漢右の二童子のみならんと宣ひしよし、驚入りし人なり。予より奥州津輕合浦にて拾ひ得し舎利濱<母衣月濱と云也>の玉を五十斗送りしかば、よろこびの體にて見えし。十五童ながらも風雅もありて、南部・津軽・蝦夷・松前の物語を尋られし事にて時を移しぬ。かくて盡しせざる事故に、是非なくわかれし事也。何となく互ひに別れをおもふ風情なりし。

十六日長岡<大概の町>御發駕、五里府中休、八里牛久止宿。

永々しく旅中にて、いろいろの事もあるものにて、十五日の夜九つ時、長岡の町出火にて、御巡見使も外へ御退、水戸公より御馳走役として付添ありし宿所も燒亡して、上を下へと騒動せし事にて、うろたへし人もありておかしき事もありし也。新治郡府中は、水戸公の御連枝播磨守侯二萬石の御在所にて、大概の町なり。水戸よりは街道筋、人通りも數多にて中々淋しからず。江戸近所なるゆゑに、風俗も江戸のごとし。先達て聞しは、世に水戸言葉と稱し、鼻聲にして解しがたきと云ひしに、夫はむかしの事にて、いまは往來筋の言語は江戸のごとし。尤在々へ入りては、音聲の鼻聾の言語もある事也。一國の中にても言語の替ある事は、常州には限るべからず。何の國にてもあることなり。