竹内敏晴 「落穂捨て 一九四五」 より

一九四四年、私は十九歳になっていた。第一高等学校は自発的に生徒を何カ所かに分割して勤労動員に出た。校長以下の幹部としては、いくらかでも自主的な、勉学と生活管理の可能性を確保するために討って出るつもりであったらしい。大部分は日立市の工場へ、少数は山形県上ノ山での集団農耕へ。[中略]日立市は海と山にはさまれた街で、山の手、電線、海岸の三工場があり、理科系の大部分は隣町の多賀工場へ廻された。ここで私の仲間達が日本海軍初のレーダーを組み立てるのである。[中略]私は弓術部の同室の仲間たちと電線工場へ配属された。[中略]

二カ月ばかりもたったろうか。工場の本屋で小さな騒ぎがあった。

当時、工場で働いている人は、私たち学徒の他は、出征するには年を取りすぎた中年の、徴用されて来ている人々であって、専門の職工と呼ばれうるような人はほとんど残っていなかった。その一人が兵隊に取られたというのである。

そこの職長が私たちの職場まで出向いてきて、だれか学生さんでやってくれる人はいないか、と頼んだ。かれは三十すぎの、肌の浅黒い屈強な男であった。それがなぜ軍隊に取られていないのかという素朴な疑問に対して、軍需工場には各部門にはこれだけは外したら生産が成り立たぬという熟練工が要所要所に残されている、かれはその一人なのだという噂であった。

私は単純に、やります、と言った。[中略]

二週間ばかり経った頃だったろうか。勤務が終って帰ろうとすると職長が私を呼びとめた。毎日大変だな、という。工場の食事じゃ腹が減ってどうにもなるまい。一度おれの家へ遊びに来ないか。地元のもんにゃいくらか手に入る伝手もあるからな。私は友達も一緒にと言いかけたが、この食糧難の中で、と思うと口が開かなかった。

職長の家はいくつかの小路を折れ曲った奥の小さな格子戸の家だった。かれは上機嫌で狭い畳にあぐらをかき、まず酒をすすめた。つづいてたしかスキヤキだった。大皿に盛り上げられた野菜と肉や魚に目を見張り夢中でかき込むうちに酔が廻ってきた。さりげなく職長が言い出した。「実はおれたちは読書会をやってるんだ。」へえ職工さんたちも勉強してるんだなあ、読書会ってどんなことをするのだろう? 文学書でも読んで討論するのかな? それとも技術書か? 私は酔った頭でウロウロ考えた。ひょっとすると口に出していたのかも知れない。するとかれはふと身を退ると、手をのばして、かれの後ろに垂れ下っていたカーテンを一杯に引いた。さして大きくもない本棚だったが、ぎっしりと分厚い本が詰まっていた。『マルクス・エンゲルス全集』文字が私の目を射た。私は焼きつけられたように停止した。

マルクスという名さえ当時の私たち少年は聞くことがなかった。共産党ということばが遠いこだまのように、秘密結社の悪人のイメージを伝えて記憶の隅にあり、憲兵に見つかったら死刑だ、という思いだけは閃いた。

戦後数年して日立工場に大争議が起こった。その数年後私は当時の記録を見る機会があった。労働組合の指導者の三番目かにかれの名があった。恐らくかれは日立工場における共産党結成の中心の一人であったのだろう。あの凄じい軍部支配と憲兵監視の底にちらと覗き見た、なお、死を賭して思想を鍛え、つながりを保ち、闘う日を待っていた人々。かれらの夢は戦後の何年かを花開き燃え続けたろう。しかし、以後かれはどれほどの挫折と闘争と変転とを生き抜いたことであろうか。今、かれはどこに生き続けているか、それとも………。

『時満ちくれば』1988年 筑摩書房

[凡例]

本稿に一部を収録した「落ち穂捨て 一九四五」には、「三人のマルクス主義(?)者たち」という副題が付されている。さらに本文には見出しが付いている。”みんな海の底よ”、カーテンの陰のマルクス、裏切り、”赤光る星”、敗戦、の五つである。本稿は「カーテンの陰のマルクス」の中からさらに一部をとり出したものである。

三人のマルクス主義(?)者とは、(1)「カーテンの陰のマルクス」の日立製作所日立工場電線工場の職長。(2)「裏切り」に登場する「当時少壮の歴史学者として学生に人気のあったH助教授」(1983年の参議院議員選挙で自民党から比例区で当選した近代ドイツ史を専門にする東大教授のことか、と勝手に推測してみました。下世話なことですが、誰なのか気になります)。彼は竹内たち一高生を日立工場に引率してきていた。(3)“赤光る星”に登場する、竹内が1945年3月の東京空襲で焼け出され、疎開先の盛岡で出会った一高の先輩である岩手県の農政課長。これら3人である。

『時満ちくれば』をお読みになりたい方は日立市記念図書館が所蔵しています。