竹内敏晴 落穂捨て 一九四五
 — 三人のマルクス主義(?)者たち —

"みんな海の底よ"

たぶん一九四三年の夏休みであったろう。日本軍はガダルカナルから撤退し、山本五十六聯合艦隊司令長官は戦死し、戦局は暗転していたが、国民一般は、皇軍が負けることはない、今が踏んばりどころだと思い込まされていた頃である。私はだだっ広い一高の寮の部屋に一人残っていた。のそりと軍服姿が入ってきた。学徒動員で出征していった文科の先輩の一人であった。かれは将校になるための試験をすべて拒否して一水兵に留りつづけた奇骨の持ち主だったが、学力を買われて暗号解読の係に廻されているという。潜水艦がアンテナだけ水の上に出して送ってくるのを解読するのがむつかしくて、といった話をポツンポツンとしたきり、かれは口をつぐんだ。窓際から人気のない庭を見下してかれは不意に訊いた。「聯合艦隊は今どこにいると思う?」私はいささかムッとした。そんな軍の機密をこっちが知るわけなどないじゃないか。「とにかく水の上にいるでしょう」せい一杯の冗談だったが、かれの唇がにやりと歪んだ。「水の上にはいねえんだよなあ」え? と言いかけたまま私は混乱した。じゃあドックに?……かれがまっすぐ私の目を見た。「みんな海の底よ」「?」私はその時初めて国民が全く知らされていなかったミッドウエー海戦の大敗とその後の戦局の破綻を聞いたのだった。それから二年、まっしぐらに敗戦へところがり落ちてゆく、飢えと疲労困憊の日々に私はいく人もの人と出会った。かれらは戦後四十年、よきにつけあしきにつけ私にとって幻の対話の相手となった。

カーテンの陰のマルクス

一九四四年、私は十九歳になっていた。第一高等学校は自発的に生徒を何カ所かに分割して勤労動員に出た。校長以下の幹部としては、いくらかでも自主的な、勉学と生活管理の可能性を確保するために討って出るつもりであったらしい。大部分は日立市の工場へ、少数は山形県上ノ山での集団農耕へ。理科の一部は東京に残って軍関係の研究所などへ通ったが、その一部はなんと「汁粉のカンヅメ」の研究だとよ、という噂が流れて来た。

日立市は海と山にはさまれた街で、山の手、電線、海岸の三工場があり、理科系の大部分は隣町の多賀工場へ廻された。ここで私の仲間達が日本海軍初のレーダーを組み立てるのである。

私は弓術部の同室の仲間たちと電線工場へ配属された。私の班が受け持ったのは、たぶん日立工場全体でも最も原始的な肉体労働の一つであったろう。約二百四十キログラムという大きな真鍮の塊が轟々たる音と共にまっ赤に灼けて炉から出てくる。鉄板の床を滑り、機械にくわえられ、棒になり、広い薄暗い建屋一面を幾条にも仕切った幅広い鉄盤の上を黄金の蛇のようにくねり躍り、だんだん細くなる毎にスピードを増して、まっしぐらに野天の広場におどり出してくる。私たちは待ち構えてホースの水を浴びせる。濛々たる蒸気の中で蛇はやや静かになる。ややたって余熱と炎天の直射日光とでまだ火傷しそうに熱い丸棒を、私たちは分厚い手袋でつかみ上げ、野天の一隅に地響きを立てつつ上下しつづけている巨大な切断機の分厚い鋼の刃の下に突き込む。ギィーンと凄じい音と共に一メートルあまりの真鍮棒がはね上ってころがる。次の金色の棒がガアーンと重なり、ころがる。これがくりぬかれて機関砲の薬莢になるのだと聞いたのは、だいぶ後のことであった。

この真鍋棒を持ち上げる時が大ごとであった。二百四十キロの棒に六人がかかる。平均四十キロ。だが、まっ先に先端を持ち上げるものには、瞬間荷重はたぶん百キロに近くなるだろう。私が地にめりこんでいる真鍮棒の先端の下に両手袋をじりじり差し込む。いいか! と気を合わせ、渾身の力をこめて、ぐい、と数センチひきずり上げる、その瞬間、次の男がさっと大地との間に空いた僅かな隙間に手を突きこむ。ダ、ダ、ダ、と次々に手が出、二百四十キロの金色の棒はゆらりと地を離れる。いくぞ! と六人のゆらつく足どり。もしつまずいたら間違いなく骨折だ。やっと切断機の台座に先端をのせた時、どっと汗が噴き出る。私はこの先端を持ち上げる役をずっとやり続けた。炎天に水をかぶり、庭の隅に積まれた塩をなめた。倒れる仲間も出た。

二カ月ばかりもたったろうか。工場の本屋で小さな騒ぎがあった。

当時、工場で働いている人は、私たち学徒の他は、出征するには年を取りすぎた中年の、徴用されて来ている人々であって、専門の職工と呼ばれうるような人はほとんど残っていなかった。その一人が兵隊に取られたというのである。

そこの職長が私たちの職場まで出向いてきて、だれか学生さんでやってくれる人はいないか、と頼んだ。かれは三十すぎの、肌の浅黒い屈強な男であった。それがなぜ軍隊に取られていないのかという素朴な疑問に対して、軍需工場には各部門にはこれだけは外したら生産が成り立たぬという熟練工が要所要所に残されている、かれはその一人なのだという噂であった。

私は単純に、やります、と言った。今までの仕事より酷いこともあるまいと思ってもいた。だが炉の前に連れて行かれてはじめて私は経緯を知った。

その建屋には私たちのよりまた一とまわり大きい炉があり、扉が開くと縦二メートル、横は三メートル以上もあろうか、三百キロといわれる巨大な銅板がレールに吊るされて現われる。パチパチ火の粉を散らしている。それを二メートルはあろうかという、長い鉄のヤットコ様のもので前と後を二人の男が挟み、頭上をカーブしてゆくレールに沿って運んでゆく。その二人の中の一人が欠けたのであった。徴用の人たちはすべてその仕事を拒んだ。からだが保たない、というだけではなかった。先導の、残った一人が、金さんという朝鮮の人だったから、組むのを嫌ったのだという。

金さんは無口の、がっしりしたからだつきの人であった。かれに教えられ、見よう見まねで私はかれの後をつとめた。灼けた銅板は肌をこがすようで、飛び散ってくる火の粉が痛かった。シャツは細かい焼け焦げだらけになり、汗は出る間もなく干乾びると、肌に緑青がふき出した。水を浴びても風呂に入っても緑青は毛穴に埋まり、シャツぽかりかふんどしまで緑色に染まって、洗っても洗っても落ちなかった。

二週間ばかり経った頃だったろうか。勤務が終って帰ろうとすると職長が私を呼びとめた。毎日大変だな、という。工場の食事じゃ腹が減ってどうにもなるまい。一度おれの家へ遊びに来ないか。地元のもんにゃいくらか手に入る伝手もあるからな。私は友達も一緒にと言いかけたが、この食糧難の中で、と思うと口が開かなかった。

職長の家はいくつかの小路を折れ曲った奥の小さな格子戸の家だった。かれは上機嫌で狭い畳にあぐらをかき、まず酒をすすめた。つづいてたしかスキヤキだった。大皿に盛り上げられた野菜と肉や魚に目を見張り夢中でかき込むうちに酔が廻ってきた。さりげなく職長が言い出した。「実はおれたちは読書会をやってるんだ。」へえ職工さんたちも勉強してるんだなあ、読書会ってどんなことをするのだろう? 文学書でも読んで討論するのかな? それとも技術書か? 私は酔った頭でウロウロ考えた。ひょっとすると口に出していたのかも知れない。するとかれはふと身を退ると、手をのばして、かれの後ろに垂れ下っていたカーテンを一杯に引いた。さして大きくもない本棚だったが、ぎっしりと分厚い本が詰まっていた。『マルクス・エンゲルス全集』文字が私の目を射た。私は焼きつけられたように停止した。

マルクスという名さえ当時の私たち少年は聞くことがなかった。共産党ということばが遠いこだまのように、秘密結社の悪人のイメージを伝えて記憶の隅にあり、憲兵に見つかったら死刑だ、という思いだけは閃いた。

そのあとのことはほとんど覚えていない。やがて私は酔って吐き、倒れて寝てしまい、やっとの思いで工場の寮まで戻ったことだけはたしかである。

なぜかれは私をひとり家に呼び、秘密を漏らしたのだろうか̃? 私を「読書会」に引き入れようと目を付けたのだったろうか? だがおそらくはあまりに幼い私を見て思い切ったのでもあったか。翌日かれも私もなにも言わず、私は黙々と金さんと働き続けた。あるいは金さんも職長の仲間なのかとふと思った。

戦後数年して日立工場に大争議が起こった。その数年後私は当時の記録を見る機会があった。労働組合の指導者の三番目かにかれの名があった。恐らくかれは日立工場における共産党結成の中心の一人であったのだろう。あの凄じい軍部支配と憲兵監視の底にちらと覗き見た、なお、死を賭して思想を鍛え、つながりを保ち、闘う日を待っていた人々。かれらの夢は戦後の何年かを花開き燃え続けたろう。しかし、以後かれはどれほどの挫折と闘争と変転とを生き抜いたことであろうか。今、かれはどこに生き続けているか、それとも………。

裏切り

当時、私たち一高生は工場街よりはるか山手の、海の見える中腹に建てられた木造二階の工員寮に合宿していた。まだ初夏の頃だったろうか。私は遅番だったのだろう。皆が出払った後、委員として記録をつけ、二人ばかり発熱して床についていた仲間を二階の部屋に見舞っていた。

突然階下の玄関の戸が乱暴にひきあげられる音がしたと思うと、野太い声が「だれもおらんのか!」と怒鳴った、ように聞こえた。驚いた私が階段を下りていくと、土間に突っ立っているのは若い陸軍の将校であった。なんで陸軍が来るのだ? 日立の工場での仕事はほとんど海軍関係と聞いていたのに。あわてて近寄って見ると、外には堂々たる恰幅の、明らかに将官と判る人物が数人を従えて立っている。「宇都宮師団の兵務部長……」と私は聞いた、「……少将閣下である。非常時局下における勤労動員学徒の志気の御視察である。御案内せよ。」私はあっけにとられた。

いったいなぜ抜き打ちに軍人が乗りこんで来たのか? それも工場でなく留守を狙ったように寮の方に。思想調査か? しかし憲兵や特高でなく、なぜ少将なんて大物が? 東京で校長が憲兵隊にひっぱられたのか?

当時の校長安倍能成は、自由主義者として有名であり、一高は軍部から自由主義の牙城として目をつけられていた。とにかく私など若年の学生の手に負える事態ではなかった。

私はとっさに「しばらくお待ち下さい」と言い捨てると身を返して廊下を走った。角の右の障子の内はこの寮の学生の監督にあたる教官の部屋である。当時少壮の歴史学者として学生に人気のあったH助教授がいる筈であった。ガラリと障子を開けざま私は「H先生、軍人です、出て下さい!」と叫んでいた。

私が見たのは、窓際の低い坐り机に向うむきにしがみついている後ろ姿であった。なにをしてるんだ? 聞えなかったのか? 「先生!」と私は呼んだ。「出て下さい!」ぴくっと背が動いて頸が歪んだ。私は半分身を入れ、半身は階下へ駆け出す姿勢のまま待った。が、シルエットになった背は更に硬直したまま棒のように動かなくなった。「何をしておるか⊥と怒声が聞える。「はい!」とっさに答えながら私は部屋へ踏み込んだ。私はあせった。先生! 軍人が……」細い横顔を机に肘をついた左手がつかんだ。一瞬耳をおおったのかと思ったが指が耳たぶを押えてぴくぴくと動いていた。

どうかしたのか? といぶかって手をかけようとした時、胸の底がひやりとした。空虚とも怒りとも言いようのない冷めたさが一瞬私を棒立ちにした。この人はもう頼ることはできない、からだをはって私たちの前に立ってくれるつもりはないのだ。

怒号に応えてあわてて駆け戻った時、もう軍人たちは土足でドカドカと上りこんで来ていた。ガラリと障子を開け、無人の部屋に踏み込むと、白手袋のまま荷物をひきずり出し、本をめくる。バサリと投げ出して次へゆく。床についていた学生は気配を察したのだろう、頭まで布団を引き被っていた。それをぐいと引き剥いで額に手を当てる。「病気はなにか!」一方では障子の桟に白手袋をすべらせ「汚れている!」。私は罵声を浴びせられ、詰問され、その一つ一つに返事をし、また叱責されながら後ろについていった。教官の部屋がガラリと引き開けられた。一歩踏み込んだ軍人は、机の前に屈みこんだまま動かぬ後ろ姿を見下して立った。左右を見渡すと、嘲笑 うように口許が歪んだ。「責任者は不在か!」と私は聞いた。ドンと畳をー蹴り、ふん、と一声残すと戸も閉めず廊下を闊歩して去った。

外に出た一行の最後の土間に残った先刻の若手将校は、「生活状態は極めて乱雑かつ不潔である。皇国の学徒として志気恥ずべきものがあると報告する。覚悟しておけ」。言い捨てて去った。

外へ出て見送った先の海は青かった。草を抽き抜いて噛むと悔し涙がぽろりと出た。なにひとつ身を防ぐものはない孤独感と怒りのようなものが風の中で鳴っていた。

私は数カ月で発熱して倒れ、発疹チフスとか肋膜とか診断をたらい廻しされたあげく、東京へ帰された。その後しばらくして日立は、海上からの艦砲射撃と空母発進の戦闘爆撃機によって工場も街もそして人も潰滅する。

戦後、H氏はマルクス主義者を名乗った。刊行され始めた綜合雑誌にしばしば論文がのり、学生たちはかれの講義に詰めかけた。「科学的」な歴史観が、初めて軍国の少年たちにつきつけられ、輝かし時代の指標として新しい目を開かせた時代であった。しかし私は一切かれに背を向けた。やがてかれは新制大学の教授となり、数年経つとマルクス主義を捨てたと宣言し、後に学長になった。かれが大学闘争の鎮圧者の役割を演ずる羽目になった時、私は、確かに、と呟いた。どんな場合でも、かれは権力に面と向って若いものの側に立つということはあるまい、かれは日和を見ることしかできぬ男に違いなかった、と。あの職長とこの教官の対照は、戦後折りにふれて私の心を刺した。

"赤光る星"

[略]

敗戦

敗戦の日の私の体験は別に書いたことがある。(『ことばが劈かれるとき』思想の科学社/ちくま文庫)前夜、八月十四日の晩に前国務大臣の家から告げに来てくれた友によって私はポツダム宣言の受諾、つまり敗戦を知った。安倍能成校長に連絡、同じ構内の軍に気づかれぬよう翌日の態勢を整えるため走り廻る中に夜が白んで来た。世界が全く変ってしまったのに、やっぱり陽は昇ってくるのか! 驚きと怖れとに歯を喰いしばって私は窓に立っていた。その目の下の銀杏並木に、兵士たちが整列し、号令が響き、皇居に対する捧げ銃が続く。目の前にあるのは昨日と全く変らぬ生活、庶民が、それが現実だと信じて疑わぬ現実。だが、それはそのまま、全世界が崩壊をすでに知っているのに、私たち日本人だけが抱き続けている虚構に過ぎない。ほんとうのこととはなにか。真実というものの根源には、手で触れられる「今」と、私たちをはるかに超えるなにかとの二つがあって、「私」はその放つ光芒の交点に喘いでいるのだということを……。

その日から三人の「マルクス主義」(?)者たちは、陽を浴びて歩き始めた。だが私は、二重映しの闇に踏み込んでいったようである。

『時満ちくれば』1988年 筑摩書房


  1. [註]
  2. 「落ち穂捨て 1945」の初出は、『言語生活』1986年10月号
  3.  著者竹内敏晴さんは2009年9月に84歳で故人となられました。ご冥福を祈りあげます。日立の現代史の会の活動の最中、1990年代前半だと記憶していますが、日立電線工場を訪問された竹内さんにホテル天地閣で短い時間ですが、会のメンバー三人でお会いしました。「カーテンの陰のマルクス」に登場する人物についてご教示をえるためでした。
  4. 『時満ちくれば』をお読みになりたい方は日立市記念図書館が所蔵しています(と書いていましたが、廃棄したようです。2024-08-25)。