日立空襲の日

田口廉二

略歴 明治34年(1901)岩手県生まれ。大正10年(1921)9月、日立製作所日立工場入社。昭和20年当時、会瀬体育館の館長を務めていた。

その日<昭和20年6月10日>は、日立工場の振り替え休日でしたが、私は体育館に出勤していました。徴用工10人ほど使って、野球場の本部席と観覧席でブタを飼っていたんです。食糧増産は、当時大切な仕事でした。

朝の8時過ぎ、鹿島灘から敵機が侵入してきた、という工場放送がありました。こっちに向かっているようなので、私は外に出て見ていました。すると突然「シャアーッ、シャアーッ」という音がしました。空を仰ぐと、100個以上はあったでしょう、爆弾の落ちてくるのが見えたんです。私たちは急いで防空ごうにかけ込みました。体育館のすぐそばに作っておいた防空ごうで、天井も壁面もすき間なく丸太で組んだ頑丈なものです。付近の高射砲陣地に配属され、体育館に寝泊まりしていた兵隊も、何人か入っていました。

私の記憶では、爆撃は3回でした。第1波、第2波の攻撃が終わったとき、私はもう来ないだろうと思い、徴用工たちと防空ごうを出て、野球場から被害を受けた工場を見ていました。するとまた来たんです、「シヤアーッ」と…。40mも離れている防空ごうまでは、とても間に合いません。とっさに、野球場のダックアウトに逃げ込みました。

この爆撃で、体育館もやられました。バレーコート2面とれる大きな木造の建物でしたが、影も形もなくふっ飛んでしまったんです。あとには、直径40m位のすり鉢形の穴があいていました。防空ごうをのぞくと、兵隊が3人死んでいました。爆風でやられたんです。

工場にかけつけると、みんながたがた震えていてどうにもならないので、集まってきた消防隊員を指揮して遺体を集めました

遺体は、備えておいた木棺に入れ、助川高女(いまの日立二高)の体育館に安置しました。30体ほどです。硬直した死体を、合掌させ、ひざを曲げて棺に入れるのに苦労しました。

通夜は、行きがかり上、私と大森繁氏との2人でしました。デザイナーの萊さんがかけつけて来て、女の人の遺体に死化粧を施してくれました。

遺体は、翌日トラックで山手工場に運び、鋳物工場の炉で焼きました。遺体の処理は、場所をか えてその後も大森繁さんと私とで行いました。約 620体、2か月かかりました。

毎年6月10日になると、大森さんは、このとき亡くなった人たちの慰霊塔のあるところへ行っているそうです。だが、私は一度も行ったことがありません。「すべて終わった、忘れよう」と思っているのです。あんなことは、二度と経験したくありません。

日立市郷土博物館『市民と博物館』第20号(1985年)