史料 助川村の石灰焼出一件
目次
- 事件の概要
- 史料1〜6
- 解説
事件の概要
文化6年(1809)、助川村の次郎作が漆喰の原料となる石灰を焼き、それを江戸へ送った。漆喰屋池田屋喜兵衛の依頼によるものだった。ところが江戸で石灰の流通を独占していた石灰仲間の会所から、規定違反なので取りやめなければ幕府に訴訟をおこすと通知を受けた。訴訟の取り下げの働きかけに失敗した水戸藩役所から、内済(和解)せよと指示された次郎作は江戸に登って駆け回る。次郎作は詫びた上で内済しようとし、石灰会所もそれに同意した。しかし厄介なのは、訴訟の相手は次郎作一人ではなかった。天下野村(同様に水戸藩領。常陸太田市)の者がいた。天下野村の態度は強硬である。水戸藩から許可を得た上での石灰製造であり、地元での凍蒟蒻製造に支障が出るとして、石灰焼き出しをやめようとはしない。石灰会所は助川村と天下野村を個別にせずに一つにして訴訟をおこした。
訴訟が起されたのが文化6年11月30日。解決は翌文化7年のことであろう。『石神組御用留』は文化6年のものだけが残されていて、この訴訟事件の結末は史料を欠いていて、わからない。
助川村の石灰焼きについては、文化年間(1804–17)後半成立の坂場流謙『国用秘録 下』(茨城県史編さん委員会『近世史料 II』 所収)にも記録がある。これは助川村次郎作の石灰焼出を伝えていようか。あわせて諏訪・大久保・金沢村の石灰生産についての記述がある。諏訪村等の石灰生産の手続・手法とは異なる生産を助川村で行ったことがわかる(「石灰石と寒水石」を参照)。
江戸後期、関東における石灰の流通について、本稿の末尾で簡単な解説を行った。
凡例
- ◦本史料は石神組御用留研究会編『水戸藩郡奉行所文化六年石神組御用留』(2009年 東海村教育委員会発行)から取ったものである。
- ◦縦書きを横書きに変え、引用者において読点[、]を句点[。]に変えた箇所がある。読点の位置についても若干変更を加えた。
- ◦助詞のは(者)・て(而)・も(茂)・え(江)・と(与)は漢字のまま文字を小さくした。
- ◦[ ]内は引用者による。
史料1 文化6年11月12日 石神組郡奉行加藤孫三郎あて興津所左衛門書状
扱下介川村百姓次郎作石灰焼出之儀、行事茅場町弥兵衛等罷越被相 糺候義ニ付、先日申出候趣も有之所、弥兵衛等別紙之通、及 公訴 之趣ニ付、公訴ハ先ツ控置候様、其筋へ御頼ニ相成候所、先方及 公訴候趣ニ候得者、弥兵衛等へ内済相整候様、尚更御達可被有之候。 仍而別紙相廻候条、否早々御申出可被有之候。以上 十一月十二日 興津所左衛門 加藤孫三郎様 追啓、別紙之内ニ天下野村之者も籠候得とも取用に不及候、以上 [別紙] 南茅場町 石灰会所預リ人 柳 蔵 芝金杉同朋町 家主 石灰屋 弥兵衛 行事ニ而左之者共を取調候者 水戸様御領知 常州天下野村 庄屋 孫衛門 同州介川村 百姓 次郎作 石灰竃元之儀者、御取極有之候儀ニ候処、右孫衛門・次郎作義、右 之外にて石灰焼出候趣ニ付、前書行事弥兵衛義罷越相調候所、孫衛 門儀ハ 御領主様御聞済にて致来候段申之、取合不申候旨、次郎作 義者、神田花房町代地新七店喜兵衛与申漆喰屋ニ被頼、聊焼出候趣 を以、喜兵衛一同誤入相詫候得共、次郎作壱人も難相済、猶石灰仲 間之者共、此節致相談出訴可仕趣ニ御座候 但、石灰之儀、前々より御勝手方御勘定御奉行様へ御掛リニ有之、 是迄右体之儀も右御掛江申上候義ニ付、此度も柳生主膳正様へ罷出 候趣ニ御座候。尤石灰上納金之義ハ御代官大貫次郎衛門様へ相納候 旨ニ御座候 右之通、承合申上候。以上 巳十一月 十左衛門
*本史料は『水戸藩郡奉行所文化六年石神組御用留』収録の717-1・2
[現代語訳]
石神郡奉行所管轄助川村百姓次郎作の石灰焼き出しの件について、茅場町石灰会所担当責任者の弥兵衛たちから糾問を受け、弥兵衛らは別紙の通り幕府へ訴訟に及ぼうとしている。訴訟を控えるよう関係筋に依頼したが、石灰会所の弥兵衛は訴訟を取り下げるつもりはなさそうなので、どうあっても内済(話し合いによる和解)させたいとの達である。ついては別紙訴訟趣意書を同封したので、すぐに調査の上返答が欲しい。
十一月十六日 興津所左衛門[1]
加藤孫三郎[2]様
追伸 別紙に天下野村の者の名がみえるが、石神組の管轄外なので考慮に及ばない。
[別紙]
石灰会所担当責任者の南茅場町石灰会所預り人柳蔵と芝金杉同朋町石灰屋弥兵衛にて水戸藩領常州天下野村庄屋孫衛門と同州助川村百姓次郎作を取り調べたところ次の通りです。
石灰竃元の件については、取決めがあったにもかかわらず、天下野村孫衛門・助川村次郎作は、取決めに違反して石灰を焼き出しました。石灰会所行事弥兵衛が調査したところ、孫衛門は水戸藩から許可をえて石灰を焼いてきたのであって、石灰会所は相手にしないと言っています。次郎作は、神田花房町代地新七店にいる喜兵衛[3]という漆喰屋に頼まれて、少しばかり焼き出したが、喜兵衛とともにまちがいであったと詫びました。しかし次郎作だけの解決でなく、天下野も同時でなければ内済しがたいので、石灰仲間の者たちと相談の上出訴することにしたのです。
但、石灰の件については、以前から勘定奉行様勝手方の担当であり、これまで右のような件は勝手方へ申し上げてきたので、今回も柳生主膳正[4]様へ出頭することになります。もっとも石灰の上納金は御代官大貫次郎衛門様へ納めることになっています。
以上、右のことに相違ありません。
巳年十一月 十左衛門[5]
[註]
- [1]興津所左衛門:「水府系纂」によれば、家督を継いだ時点で、禄は1000石。文化2年8月14日に「奉行ニ転シ」、文化7年には定江戸勤となり、天保7年10月9日には家老となる。
- [2]加藤孫三郎:石神組郡奉行
- [3]神田花房町代地新七店喜兵衛:史料5に「喜兵衛義ハ当時貝灰会所より町役人新七与申ものへ預ケニ相成罷在申候」とあるように、今回の事件が起こってから、神田花房町(千代田区外神田1丁目)の町役人の新七が喜兵衛の身を預かっていた。
- [4]柳生主膳正:柳生久通[道]。勘定奉行
- [5]十左衛門:石神郡奉行所の平手代広瀬十左衛門か。(訂正:2016-10-20)
史料2 文化6年11月16日 興津所左衛門あて加藤孫三郎返書
御書付拝見仕候。扱下介川村百姓次郎作石灰焼出、江戸茅場町弥 兵衛等罷越、相糺候義ニ付、先日一ト通リ申上置候所、弥兵衛等 及公訴候趣ニ付、先ハ控置候様其筋へ御頼御座候間、此上内済相 整候様、尚更相達可申旨、別紙御下ケ御達之趣承知仕候。右取扱 先達而池田や喜兵衛罷登居候へ共、未何レ共不申来候趣相聞申候 間、猶又此上相達、否相分リ次第追而可申上候。以上 十一月十六日 加藤孫三郎 興津所左衛門様 追啓、御下之別紙壱通并御印判返上仕候、以上
*本史料は、同様に717-3
[現代語訳]
書状を拝見しました。管轄下にある助川村百姓次郎作の石灰焼き出しについて、江戸茅場町弥兵衛らが過ちの取り調べにやってきたので、事情を説明したところ、弥兵衛らは訴訟をおこすつもりであるとのこと、まずは訴訟をおこさないよう関係者を通じて依頼したところ、内済で取り計らうようとの趣旨承知いたしました。この取り扱いについて先だって池田屋喜兵衛[6]が江戸に登ったのですが、いまだ何とも言ってきていないと聞いておりますが、わかりしだい追って申上げます。以上
十一月十六日 加藤孫三郎
興津所左衛門様
追伸 別紙一通と御印章をお返し致します。以上
- [6]池田屋喜兵衛:内容からすると、次郎作に石灰の焼き出しを依頼した漆喰屋喜兵衛のことであろう。この喜兵衛は助川村に居住しながら、助川村と横川村大金田新田(高萩市)でそれぞれに村人と共同経営のようにして石灰焼立てている(『高萩市史 上巻』)。
史料3 文化6年11月 加藤孫三郎らあて松平権蔵書状
以書付致啓達候。然者今日御城へ罷出候処、御奉行衆より別紙之通 御達ニ御座候間、早々御申合御達被成、当人当人為御指登ニ相成候 ハヽ、其段早速御申出被成候様御達ニ御座候間、宜敷御取扱可被成 候。御覧後御順達可被成候。以上 十一月廿二日 松平權藏[7] 岡野庄五郎様[8] 加藤孫三郎様 天下野村 源左衛門 助川村 次 郎 作 右御定之外、貝灰焼立ニ付江戸会所之者先達而罷下リ、相改之上、 此度先キ方より、及 公訴候趣ニ付、其筋御頼之上、別紙之通 公 訴為控置候様御頼ニ相成候間、右両人等へ罷登内済整候様申付、否 早々申出候様去ル九日両掛へ相達候所、未為指登候事与相見、先キ 方ニ而ハ最早連々 公訴控かたく候ニ付、來ル廿三四日方及 公訴 候趣、其筋御頼之者より申出候段申來候所、如何之意味にて、両扱 共今以何等之申出も無之哉、捨置候而ハ御頼之方へ対シ候而も不相 成、其而巳ならず先キ方より及 公訴候上ハ呼出ニ相成、村難義ハ 勿論勝公事ニも不相成次第ニ候間、両人共早々出立罷登内済整候様 両扱[9]へ達候事御文義之内別紙与申ケ条有之所、御下ケハ無之事
*本史料は同様に734
- [7]松平權藏:郡奉行見習
- [8]岡野庄五郎:小菅組の郡奉行。天下野村は小菅組の管轄
- [9]両扱:石神と小菅の両奉行
[大意]
文化6年11月22日に郡奉行見習いの松平権蔵が登城したとき奉行衆から小菅と石神の郡奉行あての指示をうけた。
無許可で石灰を焼立てた天下野村源左衛門と助川村次郎作を相手どり江戸の石灰会所から幕府勘定奉行所に訴訟が提起されようとしている。藩では仲裁人をたてて訴訟を起さないよう交渉しているが、当事者の源左衛門と次郎作を江戸にのぼらせ、内済させよと指示していたが、当人たちは江戸にでむいていない。両奉行からは報告もない。このまま放置していたら仲裁人や村に迷惑になるだけでなく敗訴となってしまう。両奉行は会所が訴訟を起さないよう二人を早々に江戸に行かせて交渉させよ。
上のような内容の11月22日付けの書付が松平から届いた。なお奉行衆の「別紙之御達」は松平からは届いていなかった。
史料4 文化6年11月 加藤孫三郎書状
扱下介川村百姓次郎作貝灰[10]焼之儀ニ付、内済取扱候様御達ニ 付其砌早速飛脚為指登今程罷下リ候所、何レニも天下野村孫衛門方 不相分内ハ挨拶仕兼候趣ニ而、返書到来仕候段申出御座候所、尚又 御達御座候付、当人為指登申候間、否相分リ次第早速可申上候得共、 先ツ此段申上置候。以上 [宛先欠 11]
- [10]貝灰:蠣殻灰のことだが、ここでは石灰のことである。
- [11]宛先を欠いている。史料2同様に興津所左衛門宛か
- *本史料は同様に753
[現代語訳]
管轄下の助川村百姓次郎作の石灰焼きの件については、内済するようにとの御達ですので、そのおり早速飛脚を江戸に向わせ、今程戻ってきたところです。いずれにせよ天下野村の孫衛門の意向がわからないうちは応答しかねるとのことで、返書が到着したとの申し出や、また御達があれば、当人を江戸へ向かわせますので、わかり次第早速申し上げますので、とりあえずこのこと申上げます。以上
十一月 加藤孫三郎
史料5 文化6年12月 加藤孫三郎書状
扱下助川村次郎作、貝灰焼出候義ニ付、江戸表へ当人為指登、内済 為取扱候様御達ニ付、先達而池田屋喜兵衛并当人為指登、茅場町灰 方会所へ為掛合候所、介川村之儀者内済致承知候得共、何れ天下野 村一同ニ無之候而ハ不相成旨申聞候間、則天下野村より五藤次与申 者罷登居候付、其旨掛合候得者、右村ニ而者、上より御免ニ而焼出 候付、無念ニ者無之所、会所ニ而ハ已来不焼出由之証文不取請候而 ハ、内済致兼候趣ニ候得共、右証文差出候義者不相成、却而氷蒟蒻 製方へ遣候分ハ、此上焼出候而も構無之旨之証文、先キ方より取不 申候而ハ、内済ニ者難致旨申張同心無之付、会所ニ而ハ永々延置候 義不相成由ニ而、去月晦日 公訴ニ致候ニ付、不得止事罷下候段 別紙之通申出候。仍而村申出書指添此段申上候。以上 十二月 加藤孫三郎 [宛先欠 12] 右配付にて仕出候事
*本史料は同様に765
- [12]これも宛先を欠いている。史料2・3同様に興津所左衛門か
[現代語訳]
管轄下の助川村次郎作が石灰を焼き出した件については、江戸へ次郎作を登らせ、内済するようにとの達ですので、先日池田屋喜兵衛と当人を登らせ、茅場町灰方会所へ交渉させたところ、助川村については内済を承知したが、天下野村と一緒でなければ内済できない旨言っているので、天下野村より五藤次を江戸に登らせ、交渉したところ、天下野村は藩から許可を受けて焼き出だしたのであって、落度ではないと主張している。石灰会所側は以後焼き出さないとの証文をもらわなければ、内済できないとのことであるが、そのような証文を天下野村から差し出すことはできない。むしろ氷蒟蒻製造者へ供給している分は焼き出しても支障ない旨の証文を石灰会所から貰わなければ、内済には応じられない旨主張し、助川村と一緒にはならない。会所では解決の先延ばしはゆるさないとして、先月三十日幕府に訴え出たので、やむを得ず江戸から戻ってきたと別紙の通り申出がありました。よって村の上申書[13]を添えて報告します。以上
十二月 加藤孫三郎
- [13]上申書:次の史料6
史料6 文化6年12月 次郎作口上の趣旨につき助川村上申書
- 乍恐以書付奉申上候事
- 一、当村次郎作貝灰一件、江戸かやば町灰方会所より、先達而見届有之断等御座候段御訴申上候所、早速東都へ次郎作罷登、喜兵衛一同内済為致候様被仰付、直ニ次郎作罷登掛ケ合申候所、内済相調不申近々御判紙ニ相成候趣、罷下リ申述候ニ付、左ニ奉申上候
- 一、次郎作罷登喜兵衛一同申合、かや場灰方会所之ものへ石灰問屋与四郎と申もの相頼、掛ケ合申候所、其村之義ハ何レ共任御頼ニ内済ニも可致候所、天下野一同ニ無之候而ハ、内済不相成候由被申候間、天下野よりも相登リ居候半と、春日町大黒屋長衛門所相尋候得ハ、天下野村六郎兵衛名代之由、五藤次と申もの相登居リ則対談申候ハ、我等義ハ御支配様より被 仰付、内済ニ罷登リ候旨ヲ申談合候所、五藤次相答候者 殿様より御免ニ付而相伺立焼候義ニ而、私之不調法ニハ無之、 御公儀様御苦難之程無心元、私より御陣屋へ願にて罷登申候。仍而かや場町にて已来焼申間敷証文取不申候而ハ、内済承知無之振ニ候得共、右証文指出候而内済之御同心ハ不相成、殊ニ五六ケ村氷こん制[蒟製]方へ遣候分ハ、貝灰焼申候而も先方より構無之書付取不申事ニ而ハ、内済不相成旨申張同心不仕、かやは町に而ハ長々延置候儀ハ罷成兼候趣を以、去月晦日 公訴いたし候旨、入割人与四郎かや場町より之訴状見届候旨被申候ニ付、無致方罷下リ候振ニ御座候。喜兵衛義ハ当時貝灰会所より町役人新七与申ものへ預ケニ相成罷在申候所、当月廿日方ニハ旧冬之暇相済罷下リ候趣ニ御座候。仍而次郎作口上之趣承届奉申上候、以上
文化六年巳十二月 介川村 庄屋 伝十郎 与頭 円四郎 同 次郎八 同 兵三郎 同 長 蔵 御郡御奉行所様
*本史料は同様に764
[現代語訳]
- 上申書
- 一、当村の次郎作の貝灰一件について、先日江戸茅場町灰方会所から事件の確認と訴訟通告があったことをお知らせしたところ、次郎作を江戸へ登らせ、神田花房町代地新七店にいる漆喰屋喜兵衛と一緒に内済で納めるよう命じられました。次郎作は直ちに江戸に出向き交渉したところ、内済できず、訴訟となるとのことだと帰ってきて述べますので、左にその経過を申し上げます。
- 一、次郎作は江戸に登り、喜兵衛と打合せをし、茅場町の灰方会所へ石灰問屋与四郎を通じて交渉したところ、助川村とは依頼の通り内済してもよいが、天下野村に内済の意向がなければ、内済できないと言われました。
天下野村の者が江戸に出向いているだろうかと、春日町大黒屋長衛門に尋ねると、天下野村六郎兵衛代理の五藤次が江戸にいるとのことでしたので、五藤次と話し合いました。私たちは水戸藩役所から命じられて、内済に出向いたのだと説明したところ、五藤次の返答は「殿様から許可を得て焼いているので、私たち天下野村の過失ではない」とのことでした。
公儀の苦難が気がかりなので、私次郎作から御陣屋[14]へ出向いたところ、茅場町石灰会所では以後石灰を焼かないという証文を取らなければ、内済しないだろうということでした。しかし天下野村はその証文を差し出すことに同意しません。特に五六ケ村におよぶ氷蒟蒻製造者へ供給している分は、貝灰を焼いてもよいとの書付を逆に石灰会所から取らないことには内済するつもりはないと、と五藤次は主張し、私(次郎作)たちに同意しません。
石灰会所では解決を引き延ばすわけにはいかないと、先月の三十日幕府へ提訴したと、間に立って石灰会所の訴状を見た仲裁人石灰問屋与四郎が言ってきたので、仕方なく私(次郎作)は江戸から戻ってきました。
貝灰会所から町役人の新七へ身柄預けとなっていた漆喰屋喜兵衛は、この十二月二十日には神田花房町代地新七の店を出て、江戸から下ったとのことです。
以上、次郎作が言うところを申し上げます。 文化六年巳十二月 介川村 庄屋 伝十郎 [以下略]
- [14]御陣屋:石神組郡奉行所
解説
関東における石灰生産地
青梅市北部から飯能市南部 … 八王子石灰
栃木県安蘇郡から都賀郡 … 野州石灰
深川・本所から芝への江戸内湾 … 蠣殻灰(貝灰)
会所による流通
安永4年(1775)、江戸において野州・八王子石灰、蠣殻灰の3者共同の会所を増設。
このとき、竃元の焼印と会所改の焼印を押し、竃主・会所・仲買が立合い、相場をさだめ、売り出すことになる。竃元と会所の焼印がないものは取り扱ってはならない。このことは関八州(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野国)すべてに適用するとされた。
生産・販売の自由化
寛政11年(1799)、江戸石灰市場は自由化され、3産地の生産独占、2会所による流通独占が原則崩れることになる。
しかし「向後ハ関八州其外諸国共願出候ハヽ、吟味之上焼出方申付ニて可有之候間、右稼方望之ものは、御勘定奉行御勝手方月番え可願出候」と制限付きであった。この幕府の触はもちろん水戸藩の領内にも届く。次に紹介しよう(『茨城県水産誌 第一編』p.85)。差出人古川吉郎衛門は水戸藩の役人。
以書付触候
江戸表並関八州ニテ石灰売捌方之儀、是迄武州八王子並野州村々ニ限り焼立、夫々竃元並会所改之焼印致売出、右竃元並会所焼印無之石灰取扱申間敷旨、安永四未年相触候故、向後ハ関八州其外諸国共願出候ハヽ吟味之上焼立方申付ニテ可有之間、右稼方望ノモノハ御勘定奉行御勝手方月番へ可願出候
但シ蠣殻ノ義ハ追々及沙汰迄ハ是迄通可為事
右之趣御料ハ御代官、私領ハ領主地頭ヨリ不洩様可被相触候
寛政十一年未六月
件之通公儀御触有之間、村中百姓寺社門前ニ至ル迄銘々可申触候
古川吉郎衛門
文化5年(1808)に生産者である八王子石灰業者から勘定奉行所へ願いが出された。これは石灰市場自由化の幕府方針に基づいたものであろう。その内容は「関東内石灰出所五ヶ所御定地所之儀は、八王子石灰・野州石灰・同州加園石灰・上州下仁田石灰・常州太田石灰、右村々石灰は別て性合宜敷、殊更関東筋在々隅々迄売捌都合宜敷土地ニ御座候。(中略)然とも当御改正御手広御趣意ニ付、少々品劣り候共上州・常州等之石灰相加、都合五ヶ所ニ御定被成下置候ハヽ其最寄に随ひ手訳ケ仕売出候儀ニ付、別て関八州在々隅々迄融通宜敷相成可申奉存候。(中略)常州石灰是又津出懸り江戸出不弁理[便利]之土地ニ付、同州太田領・水戸領一円ニ売捌申候」[後掲川勝論文 440頁]というものである。
少々質は劣るが、常州太田石灰など3ヶ所を加えて生産地をひろげ、5ヶ所とすれば、関東の隅々にまで石灰を供給できる。ただし常州太田石灰は舟運による江戸への輸送が不便なので、水戸藩領内に限って販売する、と願い出たのである。
しかし聞き入れられることはなく、江戸の石灰会所の流通独占状態が続いていく。
このような流れの中に、今回の事件の発端となった水戸藩領助川村と天下野村での石灰生産と販売があった。
解説参考文献
- 川勝守生『近世日本における石灰の生産流通構造』(2007年 山川出版社)。解説内の引用史料も同書によった。