回顧 昭和20年 …竹槍一つで死ぬ覚悟はあった

大蔵 巳男

海岸工場爆撃

おれは昭和18年に仲町国民学校を卒業して、日立製作所の日立工場に入った。その年の秋には成沢にあった茨専(日立茨城青年学校)に行くことになって、週3日くらい山手工場の鋼課に通うことになったんだ。そのうちこの辺も、しょっちゅう爆撃を受けて危なくなってきたから、おれたち一家は小木津に疎開した。そこでおれは、桐畑を借りて仕事の合間に野菜作りだ。おやじもおふくろも病気でほとんど働けなかったから、おれひとりで一家を支えて、それこそ自給自足の生活だよ。

20年の6月10日は工場が振替休日で、おれは朝から、畑にまく人糞をもらいにこっちの方へ来ていた。10時近いころかな、今のかみね公園の南駐車場のあたりでひと休みしていた時だ。晴れた日で、きれいな空だった。その空に突然、飛行機が編隊組んで現れ、バラバラと爆弾を落とした。

ずいぶん高いとこからだったから、はじめは多賀工場でもねらってるのかと思ったよ。爆弾はななめに落ちて、低くなるとキーンという音を立てる。その時になって海岸工場ねらってるなってわかった。

工場の屋根に落ちた瞬間、今でも忘れられないよ。屋根の両端が持ち上がるようにふくれて、それからザァーッとくずれ、骨組みだけが残る。中から黒煙がワァーンとあがって、たちまちのうちに粉じんで空が真っ暗だ。その中を工場のドラム缶が火をふいてシユーッ、シユーッとロケットのように飛び上がる。まるで映画でも見ているようだったよ。

飛行機は空がすっかり黒くなって、反撃もないとわかると、今度は黒煙の下に降りて来て低空からの徹底的な爆撃だ。それがお昼くらいまでつづいたんだ。おれは最初から最後まですっかり見てたけど、あんなかに休日出勤で出ている仲間がいるはずだ、とわかってたから、いてもたってもいられねえって気持ちだったね。

6月10日のあとは海岸工場にかりだされて、毎日生き埋めになった人たちを掘り出す作業だよ。でもどこに埋まっているか、はっきりわかんないんだから、見当つけて掘るんだからね。戦争が終わってだいぶたってからも、あっちこちから死体が出てたね。

艦砲と焼夷弾

艦砲射撃の時(7月17日)は小木津にいた。雨が降っていて夜中だった。攻撃の前に一度照明弾を落としたんだ。日立の町がまっぴかりになるような。それで位置を確認したんだろうな。そのあと静かになって安心したところに、ドドドドンという雷のような音がしたのが艦砲の始まりだよ。

艦砲は恐いよ。真っ暗な中を赤い尾を引いて横にヒユーッと飛んでくるんだから。鹿島神社の太い杉の木は、それで何本もスッパリ切れちやった。大平に住んでたおばあさんなんか、窓を開けたとたん、目の前を艦砲が横切って、そのショックで死んじやったっていう話だ。

焼夷弾(7月19日)がまたすごかったね。仲町校なんか15分で燃えちゃって、宮田のおれの家もそれでとうとうなくなっちやったよ。山まで燃えたんだから。焼夷弾は尻尾に縁のひもがついてんだよ。夜が明けたら、それがあっちこっちの本立に引っ掛かって破裂しないままぶらぶらゆれてんの。気味悪かったね。

1発の爆弾

7月26日の爆弾の時は、たぶん成沢にいたと思う。山手がやられたって聞いて、次の日現場を見に行った。電車道のそばの引込み線のところに大きな穴があいてたね。大きさねえ。25メートルくらいかな。6月10日の時と同じだよ。ただ、障碍物のない道路の真ん中に落ちた分、大きく感じるんだ。山手工場のスレート屋根は爆風でなくなっちまった。

その時見たのはそれだけだったけど、聞いた話では爆弾が落ちた時、天神森の奥さんがちょうど通りかかったんだと。体はどっかに吹き飛ばされちまったけど、家族あての召集令状をしっかりにぎりしめた手首だけが現場に残ったそうだ。その召集令状で身元がわかったんだよ。

山手工場の屋根はそのあと、モーターの中に使う電気鉄板で葺き直した。何で落としたかって?そんなことは考えなかったね。どっかの帰りに、たまたま1発残ってるから、遊び半分に工場でもねらってやろうって落としたんだって、みんなそう思ってよ。

敗戦

6月10日の1トン爆弾からは落ち着いて仕事するって状況じゃなくなってたな。水際決戦だなんて言って海岸のたこつぼ掘りなんか一生懸命やったよ。もちろん、そのころはもう勝てるとは思ってなかった。だけど、竹槍ひとつの装備でも敵と刺し違えて死ぬ覚悟はあったんだ。

8月15日は小木津で防空壕を掘ってた。ラジオなんか持ってないから、戦争終わったのも知らねえで ひとりで掘ってたら、親戚の子が来て「おじちゃん、 戦争終わったよ」って。ボーッとしちまったな。

日立市郷土博物館『市民と博物館』第40号(1996年)