史料 茨城県会の宮城県街道整備議論

明治15年(1882)茨城県会第4回通常会における県内の主要道路の修繕費に関する予算審議を紹介する。史料は『茨城県議会史』(第1巻 1962年刊)による。

[凡例]

縦書きを横書きに改め、漢字は常用漢字があるものは常用漢字に直し、ないものはそのままとした。仮名遣いはそのままとした。原文にはないが、適宜句読点と改行を施した。[ ]は編者註。

予算原案 水防費と道路修繕費を審議する通常会は明治15年4月7日から10日と15日に開かれた。原案は、土木費として5万8867円57銭、内治水費として2万2136円6銭1厘が思川・渡良瀬川・利根川・権現道川・逆川・鬼怒川・小貝川・桜川・那珂川・久慈川・里川・涸沼川・霞ヶ浦・牛久沼など1湖・1沼・17河川に対し堤防及び川除修繕費を計上した。

一方道路に対しては、3万3630円余の修繕費を計上した。その道路修繕費の内訳は次の通り。

この原案における宮城県街道(江戸時代で言えば岩城相馬海道)についての説明は次の通りである。

宮城県街道改修費ハ既ニ前年度ニ於テ専ラ之ヲ要求セシモ、議会ノ否決スル所トナル。爾来倖ニシテ暴風雨ノ道路ヲ損壊セシ如キナシト雖トモ、其坂路ノ如キハ日一日崩壊ヲ加へ、平地倍損壊ニ属セリ。尤該路改修ノ利害ハ既ニ前年度ニ於テ再議ニ附シ、詳悉シタルヲ以テ更ニ説明ヲ須ヒス。今之ヲ改修スルニ方リ完全ノ工事ヲ要セントスルトキハ、其費ス所賢実ニ鮮少ナラス。依テ先ツ前年度ノ予算額ニ拠リ該土功ヲ起サントス

坂道と平坦地の損壊が激しいと説明する。一方(1)の東京街道は「車馬ノ通行絡繹タルヲ以テ、他道ニ比スレハ其破壊モ亦一層甚シク、既ニ数ケ所ニ不陸ノ地ヲ見ル」。(3)の栃木県街道は「水戸東北ニ産出セル物貨輸送ノ要路ニシテ、旅客車馬ノ往来最モ繁ク、殊ニ海浜ヨリ魚介ヲ駄送スルモノハ昼夜殆ント其跡ヲ絶タス。然ルニ該線路中路幅甚タ狭溢ニシテ、車馬ヲ駢行[べんこう]スル能ハサル場所アリ。加フルニ土質粗悪ナルカ故ニ小雨ニモ忽チ溶蕩シテ泥濘トナリ、数旬燥カス為メニ行旅運輸ヲ難ムルコト実ニ尠ナカラサルナリ」と。

栃木県街道について長々と引用したのは、この街道の機能が如実に示されていると思われるからである。「水戸東北ニ産出セル物貨輸送ノ要路」であり、とりわけ「海浜ヨリ魚介ヲ駄送スルモノハ、昼夜殆ント其跡ヲ絶タス」。栃木県街道の改修には道路修繕費の6割を超えて投下される。県北地域の議員へのアピールでもあろうが、実情を語っていると考えたい。この状況は、江戸時代から続くものであり、鮮魚は付け通しといって、定められた宿駅で荷継ぎを行うのではなく、一気に水戸領の浜から内陸部の上野・下野の消費地まで直送するのである。その場合夜を徹して魚を運ぶ。「昼夜殆ント其跡ヲ絶タス」は実際のことを言っているのである。

審議状況

   宮城県街道ノ項

○十五番(飯村丈三郎)[1]曰 本項ハ常置委員会ニテハ原案ニ決セリ。抑昨年此項ノ廃棄トナリタルハ全ク減額ノ影響ヨリ茲ニ至リシモノニテ、真ニ彼ノ道路ハ非常ノ破壊ニテ殆ント通行モ絶ントスルノ景況ナレハ、今日之ヲ修繕スルハ已ムヲ得ストテ原案ニ決シタルナリ。此段報告ス

○十九番(色川三郎兵衛)[2]曰 本員モ常置委員[飯村丈三郎]ノ報道ヲ賛成ス。彼ノ街道ハ已ニ昨年スラ修繕セント欲セシナリ。況ンヤ今年ニ至リテハ益破壊モアラン。修繕セサルヘカラス

○四十一番[3]曰 本員ハ廃棄トス。本員ノ如キ線路内ニ住シテ日夜人ノ通行スルヲ見、且ツ其実況ヲ熟知ス。然レトモ左程困難ト云フニアラス。況ヤ本年ノ如キ費用非常ニ増加シタルニ際スニ於テオヤ。宜ク明年ニ延ハスヲ可トス

○三十九番[4]曰 本員ハ四十一番ヲ賛成ス。既ニ熟知スル所ノ四十一番カ云フモノナレハ、之ヲ信シテ廃棄トス

○三十七番(後藤道之介)[5]曰 是ヲ節減シテ三千圓トス。某員ハ之ヲ全廃スト云ハルレトモ、彼ノ大街道ノ破損アルヲ修繕セサルトキハ将来如何ナル破壊ヲ来タスヤモ計ラレス。故ニ節減ニ節減ヲ加へ全ク捨テ置キ難キ処ノミヲ修繕シテ三千円トスル所以ナリ

○番外一番曰 之ヲ廃棄トスル諸君ノ説モアレト、彼ノ街道ハ久シク修繕ヲ加ヘサリシカハ今日ニ至リテハ其破壊云フヘカラス。是此ノ額ヲ要スル所以ナリ

○十五番曰[飯村丈三郎] 本員ハ過日彼ノ地方ヲ巡回シテ其実際ヲ目撃セシカ、四十一番ノ陳ヘラルル処トハ大ニ異レリ。場所ニヨリテハ大ニ破壊シテ、里道ヨリ険悪ノ所往々アリ。本員磯原ニ至リシトキハ道ニ踏ミ迷ヘシニアラサルカト立戻リテ之ヲ問ヒハ、矢張其道カ本道ナリト云ハレテ驚キタリキ。之ヲ以テ修繕セサルヘカラサルヲ知ルニ足ラン

○四十六番(立川興)[6]曰 本項ニ対シテ或ハ廃棄説ヲ主張スルモノアリ。或ハ減額説ヲ唱フルモノアリ。然レトモ彼ノ道路ハ俗ニ坂上ト唱へ、又四十八坂トモ云フ程ニテ実ニ甚シキ悪路ナリ。是ヲ修繕スルニハ原案ノ金額ナカルヘカラス。又彼道ヲ破壊ノ侭ニ置クコトモ出来サレハ原案ヲ賛成ス

○三番(野口勝一)[7]曰 本項ニ就テハ種々ノ説アレトモ、本員ハ彼ノ道ノ北端即磯原ノ者ナリ。彼道ノ地理ヲ知ルモノハ本員ニ勝ルモノアラサルヘシ。故ニ本員ノ説ヲ信シテ原案ヲ賛成セラレタシ。既ニ十五番モ述ヘラルル如ク、磯原ノ北ヨリ神岡ニ達スル道ハ一望砂礫ニシテ、何レカ之レ道ナルヲ知ス。故ニ行人或ハ道ニ迷サルカノ疑ヲ来スハ全ノ実況ナリ。又四十六番モ陳ヘラレシ如ク石名坂ヲ昇レハ俗ニ四十八坂ト唱ル峻坂アリ。然レトモ小坂ヲモ加フルトキハ其ノ幾個トナリシヤヲ知ラス。尚又彼ノ滑川村ノ如キ蕞爾[8]タル一小村ニシテ四ケノ坂アリ。是以テ該道ノ嶮悪ナルヲ知ルヘシ。又勿来山道ヨリハ福島県ニテ、同県ハ頗ル修繕ヲ加ヘシニ、我県ハ之ニ反シテ其粗悪云フヘカラス。殆ト天地懸隔ノ思ヲ為ス。故ニ道路修繕ハ地方税増加ス云々ノ説アレトモ、多賀ノ海魚運搬ノ便ヲ得ハ其得以テ其失ヲ償フニ足ルヘシ。何ソ費用ヲ憂フルニ足ランヤ

○三十一番(大津淳一郎)[9]曰 無拠原案ヲ賛成ス。其所以ハ五千円ヤ一万円位ニテ到底修繕シ得ヘキモノニアラサレハナリ。去リ迚減額説ニ決セラルル如キアラハ、尚々迷惑ナル故、茲ニ此ノ意ヲ表スルノミ。敢テ多言セス

原案ノ可否 反対の意見を述べる41番議員は宮城県街道が走る石神外宿村(東海村)に住む黒沢四郎介で、「日夜人ノ通行スルヲ見、且ツ其実況ヲ熟知」している。しかし「左程困難ト云フニアラス」と、来年に延期だと反対意見を述べる。黒沢が知っている水戸から石神外宿までの「宮城県街道」はその通りであろう。高低差の少ないなだらかな那珂台地から久慈川を渡ると事情は一変するのである。それを知っているのが、常置委員の飯村、太田村の立川、磯原村の野口、折笠村の大津である。

このなかで大津淳一郎の投げやりな発言には驚かされる。野口勝一が現状を具に説明し、工事の必要性を熱意をもって訴えているのに対して、大津はやむなく賛成するという。その理由は原案の五千円余では不足だからと言うだけにとどまる。

宮城県街道修繕費は、全廃に賛成3人、減額(3000円)に賛成2人、原案に賛成30人で、原案が可決された。なお東京街道と栃木県街道の修繕費は減額された。

一望砂礫 飯村丈三郎は、審議を前に各地を巡回したおり、「磯原ニ至リシトキハ、道ニ踏ミ迷ヘシニアラサルカト、立戻リテ之ヲ問ヒハ、矢張其道カ本道ナリト云ハレテ驚キタリキ」と言い、野口勝一はそれをうけて、「磯原ノ北ヨリ神岡ニ達スル道ハ一望砂礫ニシテ、何レカ之レ道ナルヲ知ス」と強調した。この状況は野口が前年に著した「多賀紀行(3)」と「同(4)」において「路上細沙車輪を縈む」「阪路行尽て細沙履を没し、歩行尤も困難なり」「細沙松根を覆ひ、車之に蹶[つまず]き覆[くつがえ]らんとする数回」と指摘していることである。

四十八坂 太田村の立川が「彼ノ道路ハ俗ニ坂上ト唱へ、又四十八坂トモ云フ程ニテ実ニ甚シキ悪路ナリ」と言い、野口も「石名坂ヲ昇レハ俗ニ四十八坂ト唱ル峻坂アリ。然レトモ小坂ヲモ加フルトキハ其ノ幾個トナリシヤヲ知ラス。尚又彼ノ滑川村ノ如キ蕞爾[8]タル一小村ニシテ四ケノ坂アリ」と言う。

さらに「多賀ノ海魚運搬ノ便ヲ得[て栃木県街道に接続すれ]ハ、其得以テ其失ヲ償フニ足ルヘシ。何ソ費用ヲ憂フルニ足ランヤ」と多賀郡の漁業振興に資するばかりでなく、税金(地方税)を投入してもその分は産業振興によって回収できる。つまり多賀郡の産業振興を阻んでいるは、砂礫の道と四十八坂であると言うのである。

街道の名称 東京街道・宮城県街道・栃木県街道は、いずれも水戸を起点にした名称であることから、茨城県において使用された名称なのだろう。なお明治9年に太政官布告第60号によって道路は国道・県道・里道に分けられたとする文献があるが、布告ではなく達である。東京街道は国道(東京ヨリ各県庁ニ達スルモノ)であろうが、宮城県・栃木県街道も含めて未調査。機会があったら報告しましょう。

鉄道のこと 明治5年(1872)に横浜・新橋間が営業開始し、同7年大阪―神戸間、同10年京都―大阪間がようやく開業したが、その後は、大津―京都間(同13年開業)、および長浜―金ヶ崎(敦賀港)(同15年開業)にとどまり、幹線鉄道建設が軌道に乗るのは、明治20年以降のことである。茨城県内では水戸線(水戸―小山間。道路で言えば「栃木県街道」に相当する)が企画されるのは18年のことで、22年に開通する。そして常磐線の敷設(平―水戸間)が炭礦事業者によって企図されるのは、水戸線開通の翌年のことで、7年後の明治30年に平―水戸間が開通する。

[註]

  1. [1]飯村丈三郎:真壁郡選出 真壁郡黒駒村(下妻市)
  2. [2]色川三郎兵衛:新治郡選出 新治郡土浦町(土浦市)
  3. [3]黒沢四郎介:那珂郡選出 那珂郡石神外宿村(東海村)
  4. [4]中井敬之介:鹿島郡選出 鹿島郡息栖村(鹿島市)
  5. [5]後藤道之介:久慈郡選出 久慈郡和久村(常陸太田市)
  6. [6]立川興:久慈郡選出 久慈郡太田村(常陸太田市)
  7. [7]野口勝一:多賀郡選出 多賀郡磯原村(北茨城市) 野口は県会議長を明治14年3月1日から15年5月3日まで務めた。この会議中は議長職にあったことになる。
  8. [8]蕞爾:サイジ 非常に小さいさま
  9. [9]大津淳一郎:多賀郡選出 多賀郡折笠村(日立市)

[参考文献]

  1. 安典久「多賀紀行と道路事情」『新修日立市史』(下巻)