史料 相馬碑伝説
多賀町5丁目の旧国道沿いにある相馬碑(日立市指定文化財)は、永禄5年(1562)8月、陸奥国相馬中村の相馬氏が佐竹の領地である日立市域に侵入し、孫沢原において佐竹氏と合戦となり(孫沢合戦)、それにより戦死した相馬軍の将兵の供養碑だとされる。1976年に市指定文化財とされた(『日立市の文化財』)。
しかし相馬の軍が佐竹氏領に入ってくるには、間にある岩城氏領を通過しなければならない。あるいは岩城氏領を飛び越えて佐竹氏領を奪おうとする理由が見つからない。そもそも孫沢合戦はあったのか。このような疑問が早い時期から話題になっていたが、相馬氏将兵の供養碑ではないことを示す史料が現れなかったことから、表立っての議論に発展しなかった。
1994年に瀬谷義彦「相馬碑考証」(『郷土ひたち』第44号)が再考を促す論文を発表し、相馬将兵の碑説のほかに相馬氏の愛馬の碑説などを紹介した。
相馬碑が中世末期の板碑であることは確かであるが(千々和到「日立の板碑を考える」『ひたちの野仏』第五集)、由来については諸説がある。以下、紹介する。いずれも「伝説」として扱うべきものである。
目次
- 史料1〜3
- 相馬碑はどこに建っていたか
- 史料4
- 四つの伝説が語ること
1 「新編常陸国誌」第八巻「墳墓」篇
【相馬氏家族戦死墓】多珂郡下孫村ノ橋ノ側ニアリ、碑アリヨムベカラズ、梵字僅ニ見ユ、永禄五年八月、相馬氏奥州ヲ發シ、孫澤原ニ至ル、因テ佐竹氏ヲ襲ハントス、佐竹氏コレヲ防グ、奇策ヲ用テ相馬ノ軍ヲ破ル、是ニ於テ奥軍多ク討死ス、コノ墓ハ即其部將某ノ戦死スル所ナリ、一説ニコレハ相馬殿ノ墓碑ナリト云ヘリ、然レドモ相馬氏ノ歴代ノ内、コゝニテ戦死スル人ナシ、決シテ首將ノ墓ニアラズ、恐ラクハ相馬ノ家族ニシテ、一部ノ將タル者ナルベシ、今ニ至テ相馬氏コノ地ヲ通行ノ時、必コノ碑ヲ拝スト云、孫澤合戦ノ事ハ、加倉井妙徳寺舊記坂上三十六騎姓名帳等ニ見ヱタリ
「新編常陸国誌」については、常陸書房から刊行された1981年再版の『新編常陸国誌』「墳墓」篇によった。著者は中山信名(1787-1836)だが、色中三中(1801-55)が訂正を加え、さらに明治になってから栗田寛(1833-99)が多数の「増修補訂」を行って、上巻が明治32年、下巻が同34年に刊行された。栗田の補になるものが多いが、この「相馬氏家族戦死墓」は中山の筆によるものである。
相馬碑を孫沢合戦による【相馬氏家族戦死墓】と断定している。この見出しは栗田によるものか、いかにも近代的ある。
2 明和9年(1772)「水戸岩城道中覚」
孫ノ宿入口入し手前ニ高徳院様の御馬、鹿野と云馬の石塔有、ほろおんかんまんの梵文有、ミへかたし、所ノものしめをはへて置也、左ノ方海道ノわき畑の際ニ有
『道中記に見る江戸時代の日立地方』所収
相馬中村藩小田切伝兵衛が中村を発ち江戸に向かう道中の記録である。油繩子からやってきて諏訪村を通り、しもの川(桜川)を渡り、下孫宿に入ってからの記録である。高徳院とは広徳院の誤りで、相馬中村藩第3代藩主相馬忠胤(1637-73)のことであるというから、小田切は百年前のことを記録しているのである。
3 文化4年(1807)「水府志料」
古石碑 往還道の東宿のはしに在。梵字のみにて、何人の碑なるを知らず。古昔相馬殿の名馬斃れしを、埋し所なりとも申伝ふ
『茨城県史料 近世地誌編』所収
下孫の条に古石碑の項目を立てて小宮山楓軒の「水府志料」はこのように説明している。ほぼ同時期にまとめられたと思われる「新編常陸国誌」は上記のように断定しているにもかかわらず、「水府志料」は「何人の碑なるを知らず」としたうえで「古昔相馬殿の名馬斃れしを、埋し所なりとも申伝ふ」と断定を避け、伝説だと言っている。4に紹介する「岩城便宜」と「新編常陸国誌」の中間に位置するのが、この「水府志料」の記述である。
相馬碑はどこに建っていたか
碑はこれまでに3回移転している。現在地の多賀町5丁目9番、その前は多賀町4丁目6番の自動車整備工場脇の一里塚前、さらにそれ以前は城の内橋附近の現在アンズ並木通りの地中にあった。1959年アンズ並木通りの新設にともなう道路「工事中に土中深く埋設されていた相馬碑を発見した」のである(千葉忠也「後々のために 相馬碑の復元と移転までのいきさつ」『郷土ひたち』第2号)。
しかしこの埋設地が相馬碑が建てられていた場所ではない。「水戸岩城道中覚」「水府志料」そして「新編常陸国誌」が示す碑が建っていた場所は、下孫宿の北のはずれの岩城海道の東側、桜川のたもとである。現在の日立市多賀町4丁目3-18の道路際である。
4 相馬侯愛馬の塚 享保15年(1730)「岩城便宜」
大久保新田 少し民家有 (中略)下孫の前右の方ノ海道際ニ塚有、是は慶長頃相馬殿秘蔵の月毛の馬、此所ニて矢に□□死たるを埋し印の塚のよし、今ニ相馬殿此所通りの節ハ、駕籠をとゝむと云
道中記に見る江戸時代の日立地方』所収
「岩城便宜」は享保4年(1719)に水戸彰考館員となった川上櫟斎(1699-1732)が岩城の湯本温泉を訪れた際の見聞記である(『道中に見る江戸時代の日立地方』)。
判読できない2文字があるが、慶長年間に相馬氏の馬が矢にあたって死んだのでこの場所に埋め、その印に塚を築いた、と言うのである。享保15年時点で碑ではなく塚として伝わっていたのである。
慶長年間(1596-1615)に相馬氏がこの地域で戦闘を行ったことをうかがわせるが、そうしたことは考えられない。しかしこうした類いの話が「新編常陸国誌」の孫沢合戦での死者の碑伝説に結びついていくのだろう。
塚のある場所は、大久保新田の条での説明であるから、下孫村に入る手前の岩城海道の東の際である。現在の多賀郵便局あたりだろうか。この塚の記録はこのあとの道中日記や紀行文にはない。
大久保新田について少々説明。大久保新田のほかに金沢新田もある。これら二つの新田は、本村が山際にあって、街道整備にともなって数軒の農家が新たに街道に沿って立地したことから、ついたものであろう。
四つの伝説が語ること
1は相馬碑が相馬氏一族のだれかの墓だという。それ以外の2〜4に共通していることは、相馬氏の愛馬が下孫村近辺で死んだ、である。これが相馬家に伝わっていたに違いない。しかし塚と石碑は三つに共通しない。とするなら、相馬氏の愛馬の死という事実が塚に結びつけられ、その塚は18世紀前半に消滅し、それ以前から建っていた碑(板碑)におきかえられて伝説は続いた、とも考えることもできよう。
モノと結びつくことで、伝説は固定・強化される。逆に言えば、伝説はそれが宿るモノを探している。人々の記憶はそれだけでは儚いものだということなのだろう。いろんなことが考えられる。