史料 大久保鹿島神社の祭礼
「常陸国多珂郡大窪大宮鹿島大神宮縁起」より

[史料について]

本項の記事は「日立市史編纂筆写資料449」(日立市郷土博物館蔵)にある「常陸国多珂郡大窪大宮鹿島大神宮縁起」からぬきだした。縁起の著者は大久保村の郷医岡部玄徳。時期は明和2(1765)年。これを文化7(1810)年に大久保村郷医大窪光茂が写し、さらに嘉永3(1850)年に神官臼井田宮が写したものが残されていて、これを日立市史編纂時(1958年)に橘松壽さんが筆写したものである。

[解説]

縁起は「恐敬陳座之由来を拝し尋ね奉るに天地開る始より神の道備はり国も定りぬる時に天神七代伊弉諾尊、伊弉冉尊に柱の御神豊芦原中津国を撰造らしめ給ふて後天照皇大神之譲りを受給後、都を造らしめて云々」ではじまる。大久保の風穴・七井を鹿島の凮嚢・七井と対比したり、下孫の兒ヵ原を高天ケ原のことだと言ったり、そのほか孫沢の古城、孫沢権太夫頼繁、悪路王、源義家、源頼義、源頼朝、佐竹義篤、岩城親隆などを登場させ、諸書をひきながら古代から中世の大窪地方の歴史を叙述している。

大窪鹿島神社の始まりについては判然とした記述がみえないが、永禄5(1562)年の社殿焼失及び慶長9(1604)年の再建について次のように記している。

永禄五年戌八月十五日相馬大膳太夫(相馬盛胤。陸奥相馬氏15代。通称孫次郎)欲討佐竹、此郡に責来りて当城を攻ん事を謀りて郷中を焼払わんと火を放、先陣は大沼に備、後陣は住吉台に備、此日申時より大風吹起つて兵火社中にとび散り焼失す、此時諸大将納所宝物、願書、神領等證文皆灰塵となる、依之神罰にて孫沢にをいて戦死す、軍兵無得勝利、天文以来兵騎一日も無安喜、就中永禄の焼失故□建立する事不能、磯出之祭禮渡御も依之相止ぬと可知、慶長九年二月に至りて神徳を仰いて奉建立者也

これらはどこまで事実なのか確かめようがない。永禄5年に相馬氏がこの地に侵入したこと(孫沢合戦)は、近年ではほぼ否定されている。岡部玄徳の著書に石神小野崎氏を題材にとった「石神後鑑記」がある。これについては歴史書としてよりは、江戸時代の教訓書として読むべきだとの指摘がある。本縁起を利用する際に参考とすべきで意見である。

玄徳の歴史的な叙述には検討を要することが多いが、鹿島明神の祭礼の記録は玄徳が見聞した様子を描いており、真偽を問題にするものではない。紹介しよう。しかし鹿島神宮を引き合いにだすなど歴史記述が混じるので、注意しながら読んでいただきたい。

[凡例]

縦書きを横書きに、原文のカタカナは「ひらかな」に、漢字の多くを常用漢字にあらため、適宜句読点(。、)を入れた。□は判読不明文字。( )内は編者による補足。[ ]は編者による註。

祭礼の事は大同二(西暦807)年より始、四月七日・九月廿九日也。大晦日にも□つ白砂をけん(献ヵ)す。正月七日まて郷中鳴り物を禁す。鹿島と同事なり。四月七日往古に社磯出之時、社家・社僧・山伏・武者出る故、二十六騎勢と云なり。七月十日藁人形[1]を作りて神軍の古風あり。是鹿島と同しこと也。此祭禮之事は北条貞時[2]代鎌八幡宮[3]祭礼十六騎にて勤給事有。此例可引者也。今九月二十九日に執行なり。鎧武者出る事此儀也と可知。四月七日渡御之道筋は十石[4]え通り、川(河)原子北濱に出御にて、明神と云所にて御神酒を捧、それより津明神の社のかたわらに御休、それより横丁[5]を通、高野原[6]に至り。此日川原子に市立、悉繁盛すと、今に市姫神社あり。今鹿島の平と云所にて神楽を奏し、家々之祭を勤る也。依之此所を獅子の舞云所に神休所跡あり。是より杉之宿[7]に出る。此杉の宿は先年三町西杉馬場[8]の宿也。慶長九年往還今の宿になる。一の鳥居は弥生坂[9]の下にあり。慶応(長ヵ)年中今の地に引。馬場は大沼境まてに通る也。祭礼之時児下孫[10]より出る。児ヵ原[11]と云。今下孫にあり。猿ひき出る所を猿内[12]と云、上孫にあり。五月五日騎射の祭[13]あり。是は桜馬場[14]にて執行す。今弥生坂の下にあり。鹿島にて五月五日執行之古歌に
□には菖蒲やさしく差添いし常陸の真弓□にそ引なり
とあり。中古まては鹿島同様の祭也。九月二十九日是行わぬは八幡宮の祭礼三月十五日也。寛文年中迄は禰宜大久保氏九衛門と云もの是を行ふ

[註]

  1. [1]藁人形:疫病など村の外からやってくる災いをふせぐために村境にたてる武者人形。鹿島信仰に由来する。
  2. [2]北条貞時:鎌倉幕府9代執権
  3. [3]代鎌八幡宮:鶴岡八幡宮のことか。
  4. [4]十石:河原子村の字。岩城海道ぞいにある。現在の住居表示では千石町。
  5. [5]横丁:河原子村にある字。横町とも書く。
  6. [6]高野原:河原子村の字に高野後、それに隣りあって金沢村の字に高野あり。
  7. [7]杉之宿:水戸藩の公式地名(村名・字名)にはない。大久保村に接して金沢村に杉内・杉東・杉西の字が岩城海道沿いにある。現在の金沢三叉路から旧道に入り、河原子の産業道路まで間が杉内・杉西・杉東である。これらに沿った宿を指すか。元和9(1623)年大久保鹿島神社の棟札に「瓦子村・下孫村・諏訪村・湯繩子村」につづいて「杉ノ宿村・大沼村」と見える(『日立史苑』第8号)が、寛永12(1635)年の「水戸領郷高帳先高」(『茨城県史料 近世政治編1』)に杉之宿村は見えない。
  8. [8]三町西杉馬場:不詳。三町とは大久保村の上・中・下宿、馬場とは鹿島神社の馬場に沿う家並みをさすか。
  9. [9]弥生坂:大久保村の字。金沢村の杉西・杉東の北にある。
  10. [10]下孫:多賀郡下孫村。大久保村に上孫という字があることから、大久保村の分村と考えられているが、「水戸領郷高帳先高」では河原子村に含まれている。
  11. [11]児ヵ原:現在の字名に見えないが、「水府志料」(『茨城県史料 近世地誌編』)下孫村の条に秣場の一つとして「兒ヶ原」があげられ、「古昔兒子を埋めし所なりと云」とある。
  12. [12]猿内:大久保村の字に申内あり。
  13. [13]騎射の祭:流鏑馬のこと。このときには5月5日の祭礼で行われていたのだろう。
  14. [14]桜馬場:馬場にそって桜本という字あり。