史料 大久保鹿島神社の流鏑馬

日立市にある大久保鹿島神社で行われている流鏑馬について『日立市史』(1959年)は次のように記している。

(鹿島神社は)中世には佐竹氏の信仰が厚く、義重の時、太田城北の鎮守とされ、流鏑馬の神事を奉納したといわれ…なお、最新の武勇をたたえて行われる武者祭りである流鏑馬は、天正年間はじめられたと伝えられ、今日でも毎年旧九月二十九日に同神社境内で行われているが、日立地方としては、ほかではみられない行事である。

日立市域ではほかにみられないとされる大久保鹿島神社の流鏑馬について、これまでどのように文献で紹介されてきたのか、時代をおって紹介しよう。

1 『多賀郡史』(1923年)

鹿島神社の流鏑馬が天正年間にはじめられたことについて、『多賀郡史』は次のように記している(330頁)。

久慈郡太田城主佐竹義重[1]城北の鎮守として之を崇敬し、祭祀奉行を立て毎年九月二十九日を以て流鏑馬の神事を執行せり。<此神事當社の恒例として、今猶絶ゆる事なし>

< >内は、割書。

と鹿島神社の由来を記し、ついで流鏑馬について述べる。

流鏑馬行事は、當社馬場前に於て矢的を三箇所に立て、三回射的をなす。騎者は錦の陣羽織を着し執行す。騎者馬主の家にては、九月二十三日より同二十九日まで一週間門注連を張り、斎戒沐浴し他出せず。此祭事の起りは、天正十二年九月なりと傳ふ。

[註]

    [1]佐竹義重 常陸国の戦国大名。佐竹氏第18代当主。北条氏と関東の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築き上げた。天文16年2月16日生まれ、慶長17年4月19日歿

2 『多賀町の史蹟』(1940年)

本書の記述は『多賀郡史』とほとんど同内容なので、省略する。

3 『茨城県神社誌』(1973年)

おそらく神社から提出された記事を元にして、次のように記す。神社の概要を含めて紹介する。

【鎮座地】 日立市大久保町字関口六〇三

【祭神】 武甕槌命

【境内神社】 (略)

【祭祀】 例祭 四月七日(春祭) 交通神社祭 四月十五日 秋祭 十月二十九日(天正十二年九月二十九日より流鏑馬祭りとして今日まで絶えることのない神事を伝ふ。旧九月二十九日であつたが、昭和四十五年から月おくれの十月二十九日に斎行)

【特殊神事】秋季大祭には代々上孫町が祭典前に散々羅を行ひ、各町の山車を繰出し午後三時過ぎ、流鏑馬神事あり。騎主は二十三日から門注連をはつて、斎戒沐浴し、他出せず、俗に八幡太郎と称し、馬場先にて二十三日試乗、二十八日本社で清祓式、二十九日当日馬場先に設けられた三ヶ所の的に錦の陣羽織着用の騎手馬を走らせ、次々に射的す。使用する弓を「無州」といい、矢九本、的九ケ。(中略)河原子海岸で人馬共に潮垢籬神事をする。

【由緒沿革】 文武天皇大宝元年(701)四月七日鹿島大神を勧請創立。初め河原子村鹿島森に祀り、塩浜明神と云ふ。…太田城主佐竹氏城北の鎮守と崇敬し、旧九月二十九日流鏑馬神事には祭祀奉行を立てて当らせた。(以下略)

【棟札】 慶長十九年他多く所蔵

【神木】 (略)

【神紋】 左三巴

【施設】 (略)

【境内】 (略)

【氏子】 (略)

【宮司】 臼井八郎(三十四代) 禰宜 臼井悦郎 (以下略)

史料1〜3いずれも流鏑馬の始まりについて根拠となる史料を明示していない。

これら『日立市史』をふくめて4文献の鏑流馬の歴史に関する記述は、どうやら『多賀郡史』が元になっているように考えられるが、その『多賀郡史』は出典を示していない。

さて次に紹介するのは江戸時代水戸藩の寺社改革にともなう記録である。1〜3の後世の編纂物とは異なり、江戸時代前期の当時の調査である。

4 鎮守開基帳(寛文3年 1663 調査)

大久保鹿島神社に関して水戸領「鎮守開基帳」に次のような記述がある。

   大久保村

    [2]勘右衛門:薄井勘右衛門。鹿島明神の神主

大久保鹿島明神の除地(年貢免除地)として高6斗6升7合分の「やふさめ免」が書きあげられていることに注意を払いたい。「やふさめ」は「やぶさめ=流鏑馬」のことである。

鹿島神社流鏑馬のはじまり

「鎮守開基帳」にみえる鹿島明神の「流鏑馬免」は、流鏑馬行事に必要な経費をこの田畑の収益からまかなうために無税扱にする田畑のことである。佐竹氏が秋田に移封を命じられたのが慶長7年(1602)7月末。その翌8月に伊奈備前らとともに旧佐竹領の検地を行った幕府代官頭彦坂小刑部元正によって流鏑馬免は認められたのである。

この点において慶長7年(1602)段階で鹿島神社において流鏑馬が行われていたことはあきらかである。したがって流鏑馬の開始は、慶長7年よりさかのぼることは確かである。

流鏑馬免が認められた慶長7年と社伝などにより開始年とされてきた天正12年との間は18年にすぎない。天正12年に始められたという1から3の文献の記述は信憑性が高いといえよう。

また「佐竹義重」の関与があって始められたという伝説も、佐竹氏の信頼が篤かった大窪氏の本拠地であることを考慮すれば、信頼に足るものであろう。