史料 宮田・諏訪・入四間・助川村の怪異譚
雨宮端亭「みち艸」より
目次
- はじめに
- 著者雨宮端亭について
- 原文
- 現代語訳
- 多賀山地の天狗譚
はじめに
水戸藩の郡奉行を務めた雨宮端亭の著書「みち艸」の宮田村の条に、宮田・諏訪・入四間・助川の各村での山にかかわる怪異譚が記されているので紹介する。柳田国男『遠野物語』で語られている「入眠幻覚」に似ている。
雨宮は職務上管轄区域の村々を訪れ、見聞したことを記録した。事実と自ら体験したことと単なる伝聞をそれぞれに厳密に区別する合理的な精神をもっている。
その雨宮が記録した四つの話は、宮田村での体験から始まり、ひとつの物語をもっている。宮田村では少年が神隠しにあったのではないかと村人が心配するが、笑い話で済んだことを諏訪村で語る。ところが諏訪村の庄屋からは宮田村庄屋が夜に山に入ることを最初は拒否したことの事情を説明される。そして同道した奉公人からは入四間村の山中での体験を聞かせられる。その上で助川村の事件である。
伝承である『遠野物語』とは異なり、実際に起った四つの出来事があって、それらを間近で記録したものである。雨宮端亭の解釈が入り込んでいるにせよ、江戸時代の人びとが奥深い山にいだいている意識を知ることのできる貴重な記録である。
と同時に儒学を学び、合理的精神をもつ武士である雨宮端亭。その彼が非合理的な話、怪異を村人から聞く。しかし頭ごなしに否定するのではなく、彼が困惑しているさまがうかがえる。態度保留(弁証法的思考中ということか)。現代では精神医学的に説明できるものなのかもしれないが、ここでは雨宮の事実への誠実で科学的な態度に驚くばかりである。現代人であってもこうした態度をとれる人はわずかであろう。
著者雨宮端亭について
雨宮端亭は、水戸藩医原玄春の二男として水戸に生まれる。通称又衛門、実名廣安。安永9年(1780)水戸藩家臣雨宮家の養子となり、家督を継ぐ(22歳)。
寛政3年(1791)2月郡奉行(松岡郡)となる(33歳)。松岡郡の奉行在職中に巡村した記録が「美ち草」の上巻である。この上巻に本稿が紹介する記事が載っている。寛政9年4月定江戸目付となり、同11年10月再び郡奉行(太田郡)となる。このときの巡村記録が下巻に収められている。享和2年(1802)町奉行。その後軍用懸りなどをつとめ、天保元年(1830)藩主斉脩の室峰寿院附属の用人となったが、天保3年(1832)5月26日致仕して、端亭と号す。
同年11月7日歿する。享年74。なお兄は水戸藩医原南陽。
主として「水府系纂」より
原文
史料について
- ◦本史料は、郷土ひたち文化研究会によって1999年に『美ち草』として翻刻されている。底本は国立国会図書館所蔵本である。罫紙の版心に「叢桂亭藏」の文字が刷られている。叢桂亭は実兄の原南陽の号である。また原家の蔵書印があり、自筆本ではなくとも、それにかなり近いものと考えられる。外に茨城県立図書館と茨城県立歴史館に写本がある。
- ◦国会図書館本の影印本を榎本實氏が1991年に発行している。本稿は郷土ひたち文化研究会の翻刻本を参照しながら、影印本によった。読みが異なるところが若干あるのは、そのためである。
凡例
[本文]
- 一 宮田村神嶺山高山也。寛政四子のとし予此村のやとりに着し頃、申の刻はかりなり今より登山すへしといへは庄屋次三郎今より登山ハおそかるへし、あした登れと云てしきりにいなミけれとも、朝は露ふかくことに巡れる村々も多けれは是非にとて登れり。山頂に至れは日も西にあかねさし暮靄たなひきける所もありてくわへしく写すへくもあらねは、只山々の方位をのミしるしぬ。
夫より山を下り一の鳥居を出る時、庄屋溜息つきてさてさて御用と云ハかありかたきものといへる故いかなる事にやと問に、此山へ七ツ過なとに登るものなし。権現へ詣ふてるには前の日よりゆあミ、切火して登る事になんあるに、かく日暮におよひて事なく下山する事のありかたさよといへり。夫をも知らて強て登れる事、村長の心のうちおしはかられぬ。山道けわしく登れる時よりもくたりにハいとなやミて、大雄院へ至れは火ともしころ過にそなりける。庄屋の組頭へいへるに、暮ぬ前ニ灯持て大雄院まてむかいに出よといい置たれは来りぬらん、とく聞て参れといふに、組頭いちはやく立戻り、少し先に火を乞ふててうちんともし立出ぬと寺にていへるよしなれとも、此山道はひとすし故迷ふへくもあらす。いかゝしつらんとミなみなおとろけるさまにて、其ものを呼めくれとも更にこたへもなし。扨は神かくしに逢ふたるなるへしとしきりにさかしもとむれとも見へされハ、組頭と其外の人々をのこしたつねよとて、予は庄屋をあないにてやとへかへらんと大雄院の門前大杉のたちこすミたる所八町ほと行過ぬ。其所に人家二三軒あり、軒下に提灯をともし置けり。庄屋立より見れはむかいに出たるおのこ縁にあしなかくふミ出し小唄うたふてやすミ居たり。庄屋何とて爰にハ居たりといヘハ、日くれたる故山へものほりかたく此所に待居たりといふ。夫より又たつねにのこしたるものを呼などして戌のこくはかりにやとりにつきぬ。明けの日諏訪村に至り、きなふハかくかくの事ありて大わらひしぬと語りけれハ、庄屋徳衛門いへるハ、次三郎の心遣ひいたしたる事なミ体の事にはあらさるへし。此辺にて中々夕かた登山なとすへきものなし。三四年已前にかみね山へむらのもの薪取につねに人の至らぬ山奥に至る。薪を伐らんとて斧をふり上けしか、斧動かさる故ふりかへり見れは、大なるやまふし其斧を握り居たり。斧をはなし驚きおそれて打伏しけれハ、斧のおとひゝきて打伏たる頭の前へ投落しぬる故、其斧をとり跡をも見す我家へ戻り、斧を見るに、斧の刃かべ〔斧の柄をさす穴のところをかべといふ由〕の所へ丸くなりて付ぬ。其斧を徳衛門したしく見たるに、其形人力ハさらなり火にかけ槌をもて打たるとてもなかなか曲るヘくもあらす思わると云。かくの如き事のたまたまありてミなみな天狗のわさ也とておそるゝ事なりといふ。予か其時召連し僕ハ入四間の生れにて嘉介といへり。年の頃五十にあまれるか。年若き時四人にて入四間山へ木を伐にいたり、昼やすミせんとて足なけ出し、たはこ吸ふて咄居たるに、むかふなる大杉風もなきに倒れかゝれハ、三人のものハあわてふためき逃出し宿へかへりぬ。嘉介ハかせもなきに倒るゝ事もあるましけれハ倒る如く見ゆるのミなるへしと思ひ居たるか、やかて倒れかゝると見へしか正気を失ひぬ。先へかへりし三人のもの嘉介の帰らぬを心もとなく思ひ尋ね来るに杉の木ハ倒れす、嘉介ハもと居し所に絶入て居たりしを、さまさまいたわり正気付たる事ありとかたりき。此前年(寛政三年)、上公の御筆を以て育子の弊風あらたむへきの命ありて、予六月の半に農事のひまある時、村々をめくりてむら毎に百姓妻子迄をものこりなくあつめて教諭せし時、介川村に至るに、村長のいへるは兵四郎といへるもの、きのふ馬を牽て朝草苅に山へ至りしに、帰らさる故人々打つとゐ山を尋ねしに、馬ハつなき置て兵四郎はみへす、故に村内のものけふもたつねに出たれは、内寄もの少しといへり。(寛政四年)其夜介川に至り兵四郎はいかゝそと尋しに、四日過てもとの所に帰り居たるを見当りてつれかへり、四日の間いかなる所に行きたりと問しに、何も覚えす只うつとりとしたるさまなりけるか、程なくつねの如くなりけるといへり。怪力ハ語るましき事なれと、山鬼なとのかゝる事をなしぬるかいふかし。
現代語訳
宮田村にある神峰山は高い山である。寛政四年、自分が宮田村の宿に着いたのは、午後四時だった。これから神峰山に登ると言うと、庄屋の次三郎は「今からでは遅すぎます。明日、登ってはいかがでしょうか」となかなか首を縦に振らない。けれども明朝では露が深く、巡回する村々も多いので是非にと言って登った。山頂に到着すると、陽も西に傾き、空は茜色に鮮やかに映え、靄がたなびくところもあって、詳しく写生することもできなくて、ただ山々の方位だけを記した。
それから山を下り、一の鳥居を出るとき、庄屋が溜息ついて「さてさて御用と言うはありがたいものです」と言うので、どういうことかと問うと、「この山へ午後四時過ぎに登る者などいません。神峰権現に詣でるには、災難を避けるために前の日から湯浴みし、切火をして登るのに、このように日が暮れても何事もなく下山することができるのは御用だからでしょう」と答えた。そんな庄屋の不安な胸のうちを知らずに強引に登ってしまったのであった。
山道はけわしく、登りよりも悩まされた。大雄院に到着するころには、燈が必要になっていた。庄屋は組頭に「迎えの者に陽が落ちる前に燈を持って大雄院まで来いと言っておいたのに姿が見えない。どうしたのだ」と言うと、組頭はすぐさま戻って大雄院に事情を聞いてきた。「少し前に火を貸して欲しいとやって来て、提灯に火をともすと出ていった」と寺では言っているという。この山道は一本道なので迷うはずもない。どうしたことだろうとみんなは驚き、迎えの者の名を呼んだけれども返事はない。さては神隠しにあったのだろうかと皆は懸命に探したけれども、姿はなかった。組頭とそのほかの人々を残し、探索を続けることになった。自分は庄屋の案内で宿へ帰ろうと、大雄院門前の大杉から八町(900メートル)ほどくだると、人家が二三軒あった。軒下に提灯がさがっている。庄屋が立寄り見ると、迎えにでるはずの少年が縁側に足を長く伸ばし、小唄を歌って休んでいた。庄屋が「なぜここにいるのか」と問うと、少年は「日が暮れて山へ登るのは危いので、ここで待っていた」と言う。それから少年の探索に残してきた者を呼び戻し、宿に着いたのが午後八時のことだった。
翌日諏訪村に行き、昨日はこんなことがあって大笑いしたと言うと、庄屋の徳衛門は宮田村庄屋次三郎の心配は並体のことではないと次のように理由を述べた。
──このあたりで夕方に登山する者などおりません。それには理由があるのです。三四年以前に神峯山へ諏訪村の者が薪取りに普段は人が入らない山奥に向かいました。薪を伐ろうとして斧を振り上げたところ、斧が動かないので振り返って見ると大きな山伏が斧を握っていたのです。斧を思わず手放し、恐怖のあまりその場に伏せたら、斧が落ちる音が響き、驚いて頭をあげると伏せた顔の前へ投げてよこしていたので、斧を取り、後ろをも見ずに我が家へかけもどりました。斧を見ると、斧の柄をさす穴のところが丸くなっていました。その斧を私がよくよく調べてみると、その形は人の力をもってしてできるものではない。火にかけ槌をもって打ったとしても、なかなか曲るものでもありません。このようなことがあって、村人は「天狗の技なり」と言って深い山へ入るのを怖がっているのです。
自分がこのとき連れていた奉公人は入四間村の生れで嘉介といった。歳は五十を出ていよう。若かった時の話をしてくれた。
──入四間山へ四人で木を伐りに出かけました。昼休みにしようと足を投げだし、煙草を吸いながら雑談していたところ、向こうの大杉が風もないのに倒れてきたのです。三人はあわてふためいて走りだし、村へ帰りました。私は風もないのに倒れてくるはずもない、倒れるように見えるだけのことだと思って、その場にとどまっていたのですが、やがて倒れてくるように見えて、気を失ってしまいました。先に村に帰った三人は、私が帰って来ないので、心配になって探しに戻ってきました。杉の木は倒れず、私は元いたところに気絶していたのをいろいろ介抱されて目を覚ましたのです。
昨年(寛政三年)、藩主(徳川治紀)から子育ての悪風改革を命じられ、自分は六月のなかばの農閑期に村々を巡って百姓やその妻子を集めて教諭したときに、助川村で庄屋が次のように語った。
──兵四郎という者が昨日馬をひいて朝から草苅りに山へ出かけました。帰ってこないので村人は集り、山に入り探したところ、馬はつないであったのですが、兵四郎の姿は見えませんでした。そのため村内の者が今日も探索に出かけたので集まった者はご覧のように少なくなってしまいました。
今回、夜になって助川村に着いた。昨年山で行方がわからなくなっていた兵四郎はどうした、と庄屋に訊ねたところ、次のように語った。
──あれから四日過ぎて元の場所にいたのを見つけて連れ帰りました。四日ものあいだどこに行っていたのかと問うと、ただただぼんやりとしているだけです。ほどなくして普段の様子に戻りましたが、何も覚えていないというのです。
孔子が言うように、怪しい力つまり説明がつかないことを語ってはならないことだが、私端亭がこうして書き留めたのは村人の話を信頼したからである。それでも山鬼の仕業だというのは疑わしい。
関英馬「多賀山地の天狗譚」
この見出しは関英馬『おなばけ・はなぞの・いりしけん—茨城地方の民間伝承—』(1987年 牧野出版刊)に収められた一文のタイトルである。著者は精神科医。1929年(昭和4)中里村入四間に生まれ、55年に昭和医科大学を卒業する。その学生時代に『民間伝承』(六人社発行)1951年5月号に発表したものという。
「深山で天狗に様々のこらしめを受けたり、あるいは天狗が木を伐り倒す音がしたといった話は、日本全国の山村に広く分布している。柳田国男の「山の人生」によれば、「天狗倒し」はまた所によって「天狗の木倒し」…などと呼ばれている。ともかく木樵たちは大木の倒れる音に肝を潰すのですが、天狗田尾氏の現場へ行ってみても、多くはなんの起こった様子もない」。
久慈郡の里川流域の村人から著者が実際に聞き取りした十六もの「天狗譚」を紹介し、山仕事は「天狗の棲家をおびやかすもの」であって、斧を振るって「千古」の山林を伐採することは天狗の「怒りをかう」ことだと言う。そして第二次世界「大戦中、軍部の供出命令で某氏所有の美林が姿を消す時、我が事のようにいきどおった老人の言葉が私の耳にある」と。
2022-07-29 追記
[参考]
大森林造さんがすでにこの部分を訳されていました。「二百年前の日立を尋ねる 雨宮端亭『美ち艸」抄訳」『郷土ひたち』(第51号)にあります。調べを怠っていました。大森さんの訳とつきあわせて二ヶ所修正しました。大森さんの訳もご覧ください。(2014-08-15)