黒前の山と角枯の山 くろさきのやまとつのかれのやま
常陸国風土記にある地名由来 日立篇

多珂郡に属する黒前の山の由来を次のように説明する。

黒坂命 くろさかのみこと 陸奥 みちのおく 蝦夷 えみし 征討 ちたまふ事ありき。 凱旋 かちかへ りて、 多歌郡 たかのこほり 角枯 つのかれ の山に いた るに、 黒坂命 くろさかのみこと 病に遇いて 身故 みまか りたまふ。 ここ に、 角枯 つのかれ を改めて、 黒前山 くろさきのやま なづ く。

訓読文は、沖森卓也ほか編『常陸国風土記』(2007年 山川出版社)を参考にした。

黒坂命が陸奥国の蝦夷を征討することがあった。凱旋して多珂郡の角枯の山に来たとき、黒坂命は病にかかり死んでしまった。そこで角枯の山をあらためて黒前の山と名づけた。

「くろさか」から「くろさき」である。このように変わるのはよくあることなのだろうか。風土記の編者の説明がほしかった。

黒前の山の由来を記すこの部分、現在に伝わる写本の「常陸国風土記」にはない。写される過程で落ちてしまったのである。しかし文永6年(1269)成立の仙覚*『万葉集註釈』(仁和寺本)に残った。仙覚が風土記の一部を引用していたのである。多郡が多郡となっているのは、仙覚の誤記であろう。

*仙覚 せんがく 鎌倉時代の天台宗の僧侶。常陸国の人。

仙覚によるこの黒前の山の記事は、常陸国信太郡の地名由来を述べる場面に登場する。上に紹介した文章につづいて次にようにある。

黒坂命の 輸轜車 きくるま *、黒前の山より発ちて、 日高見 ひたかみ の国に到るに、 葬具 はぶりつもの よそおい 、赤旗・青幡、 交雑 まじわ 飄颺 ひるがえ りて、雲と飛び虹と張り、野を らし、 営路 みち を輝かせり。時の人、「赤幡 しだ る国」と いき。 後世 のちのよ こと に、 便 すなわ ち改めて 信太国 しだのくに う。

*貴人の葬儀に際して、棺を載せて運ぶ車。進行の際に哀音を発するよう車輪に特殊な構造を施す。

遺称地 黒坂村

角枯の山・黒前の山いずれもこの山名は今に残っていない。だが角枯のイメージは、飽田の村の条にある「野の ほとり に群れたる鹿、 無数 あまた にして いと 多し。其の そび ゆる角は、 あし の枯れたる原の如く」に一致する。とすればこの山は飽田の村内にあってよい。しかしそれ以上のことは風土記からはわからない。

江戸時代、黒坂村があった。日立市の北部にある十王町黒坂である。江戸後期の地誌「水府志料」は「村名を黒坂といへるは、黒坂命の故を以て名づけたるならん歟」と推測する。この黒坂を遺称地としておこう。

比定地 竪破山

「水府志料」は黒前山について「常陸国誌には其ある所をしらずとあり。按るに、竪破山は古への黒前山にして、山の頂に切割たる如き大石あるゆへに、後世竪破と改たるなるべし」という。江戸時代後期にはすでに黒前山という地名は失われていたのだが、竪破山を黒前山だとした。だが「水府志料」の編者小宮山楓軒はその根拠を示さなかった。

志田先生は次のように言う。黒坂命は「常陸国風土記」にのみ登場する人物である。茨城郡の条にも国巣・佐伯(帰順した蝦夷)を征討する軍を率いる人物として現れる。またこの逸文にあるように亡骸を本土(出身地の信太国)まで運ぶという葬送儀礼は副将軍以上の人物だったことを示す。その黒坂命が凱旋の途中に立寄る山となれば、征討に向かうおりに戦勝祈願をしたにちがいない。そこで現在の 竪破山 たつわれやま である。山頂にある「二つに割れた巨石を神霊の 御技 みわざ か、神の 依代 よりしろ とみた古代の人は蝦夷征討の神として崇敬したものと思われる」と*。

*志田諄一「碁石が浜と竪破山」『十王町史 通史編』2011年

この点から、角枯の山・黒前の山は、竪破山である。もちろん竪破山は黒坂村にある山である。