日立駅舎 年表
日立駅は1910年代以降に駅舎移転、跨線橋設置、橋上駅開設、ホーム造設、改称、駅舎移転と大きく変化する。それは1905年からの日立鉱山の発展と1930年代以降の日立製作所の拡大発展をなぞっている。
1980年代後半には、日立鉱山の閉山と日立製作所の停滞を受け、企業城下町からの脱却をめざして、茨城県北部の中核都市としての日立駅前再開発が企画された。用地は日立鉱山の荷扱所跡地であることがそのことをなによりも物語っている。現在その延長線上に日立駅舎の改築が行われていると考えられよう。
そして今回の改築日立駅舎の設計は日立製作所の会瀬社宅で育った妹島和世である。このことを含め、日立市を考えるときにいろんなことを考える材料を日立駅舎の歴史は提供してくれている。
とりあえず鉱山と製作所の歴史と一体となった日立駅舎の歴史が、以下の簡略な年表からもうかがえよう。
1897年 (明治30) |
2月 | ◎日本鉄道会社磐城線の水戸・平間開通 助川駅開設 |
1901年 | 11月 | ◎磐城線は、墨田線・土浦線と一体になり、海岸線と改称 |
1906年 | 3月 | ◎鉄道国有法により海岸線は国有化 |
1909年 | 10月 | ◎海岸線は常磐線と改称 |
1914年 (大正3) |
9月 | 日立鉱山電車の側線敷設のために現在の海岸口に駅舎を移転 開設当時、駅舎は海岸口の線路はさんだ西側にあった |
1916年 | 10月 | 人道跨線橋設置 |
1917年 | 2月 | 人道跨線橋に面して橋上駅を開設 |
1934年 (昭和9) |
8月 | 5日 改良鉄骨跨線橋開通 |
1935年 | 4月 | 7日 跨線橋改造にともない停止していた橋上口での出札開始 |
1939年 | 10月 | 20日 日立駅と改称 |
1940年 | 2月 | 上り専用ホーム(現在の3番線ホーム)を増設 |
1945年 | 7月 | 19日 アメリカ軍の空襲により駅舎全焼 |
8月 | 再建駅舎完成 | |
1948年 | 3月 | 31日 北側跨線橋新設。北口(現在の中央口)で出改札業務開始 *1949(昭和24)年3月31日…『日立市史』 |
1952年 | 4月 | 15日 平和通りに面した北側に駅舎完成 *3月30日 新駅完成…『日立市史』 |
1961年 | 4月 | 10日 北側駅舎を中央口と改称 *1月 日立駅は日立駅の出口名の呼名募集開始…『日立市報』 *4月1日 出口名の呼名決定。使用開始…『日立市報』 通称新駅(正式には本屋口)…中央口 通称旧駅( 〃 海岸口)…海岸口 通称橋上( 〃 橋上口)…橋上口 |
2011年 | 3月 | 26日 日立駅舎改築完成。使用開始(予定) 中央口・海岸口・橋上口廃止(予定) |
4月 | 7日 東日本大震災によって3月11日から不通となっていた常磐線勝田・高萩間が開通。このため延期されて駅舎供用が始まる |
以上、年表形式で日立駅舎の変遷を追うにあたって、つぎの文献・資料によった。
主として『旭町の今昔』(1987年)だが、『日立市史』(1959年刊)と『日立市報』(1961年)も参考にした。
これら三つの文献・資料の記述で食違う箇所がいくつかあるが、出典を確認できないでいる。たかだか50年前のことでさえ、たしかなことはわからなくなっている。
『旭町の今昔』には、たとえば「助川駅歴代駅長」の表が掲げられ、氏名と在職期間が記載されている。日立駅の内部資料を使用していることがうかがわれる。日立駅の地元の人々が編纂したものであり、この点からも『旭町の今昔』の記述は重要である。
『日立市史』は1959年に刊行されたものであるので、10年前のことを間違うだろうかとも思う。しかし出典は加納次郎「日立都市計画事業を省みて」(未定稿)であるというが、出典は確認できないし、加納氏のこともわからない。
両論を併記したまま皆さんに示すことにした。