鉱山昔語り
日立鉱山を中心として
金属鉱山研究会日立合宿例会報告
『金属鉱山研究会会報』第41号(1984年12月)
飯場のこと
古田力造 鉱山の歴史は、鉱山会社や鉱山が総合的に作ってこられたが、そこに働いていた従業員の労働や生活の歴史について述べられていない。これを是非きちんとした形でまとめたいというのが「市民の会」(鉱山の歴史を記録する市民会)の本旨です。
私の父は、荒川鉱山で出生し、秋田の発盛鉱山で働いていたが、小坂鉱山とも近く、そうした関係で久原さんに引張られて、明治三八年に一族をひきつれて日立鉱山にきた。私が三才の時です。
この近くには常磐炭坑もあったが、父は一等坑夫で、炭掘坑夫などやれないやはり金属鉱山だといって、まっすぐ日立に入ったわけです。父は、日立鉱山の坑夫をやろうとすると、人手を集めるために飯場をやれと採鉱課長の堀哲三郎さんにいわれた。堀さんは鯛生鉱山からきた技術屋です。父は、私には家内も子供もいる。飯場頭になってやられてしまったら、家族が路頭に迷うから勘弁してくれと辞退したが、堀さんは、お前に一身上のことがあれば、家族のことは一生引受ける。決して心配するなといわれて、その意気に感じて飯場頭になったと聞きました。
その間、日立と足尾とは犬猿の仲で父が坑夫の募集のため足尾へいくと、足尾では、古田がきたら殺してしまえとさえいわれた。足尾へは栃木県の今市を根拠地にして網をはっていたわけです。命がけの募集でした。
何故足尾銅山へいったかというと、常磐の炭掘坑夫を集めても、日立のような硬岩を掘る仕事には向かない。足尾のような硬い岩磐を掘ることができる坑夫ならすぐに役に立つからです。
私は、飯場で育ち、大正五年にここの高等小学校を卒業し、日立で生活してきました。
坑内のうつりかわり
加藤正一 私は大正一三年に日立で生まれた。父は富山県の生れです。富山で何をしていていたかわからないが、父の兄妹のうち四人は商人をしています。
父は足尾で鉄索関係の仕事をしていて大正五年に日立にきています。多分鳶のようなことをしていたのだと思う。というのは、母は建築請負師の娘だったからです。日立でも索道関係の仕事をしていた。
私は、ここの小学校を出て機械の営繕関係の仕事をしていた。現役に入る前に四国の白滝鉱山にいき、そこで選鉱と採鉱の仕事を半々ぐらいした。その後日立に戻り、昭和二八年から五四年の停年まで採鉱の仕事をつづけた。
採鉱の変遷について簡単に述べると、はじめは選鉱廃滓、坑内廃石、低品位鉱を充損して逐次水平に階段状に採掘していく方法がとられた。盤の悪いところではトップ・スライシング、盤の硬いところではシュリンケージ法、斜に採掘していくリル・ストーピング法もおこなわれた。
つぎに、浮遊選鉱の結果できたスライムを利用し、これを採掘跡に充損しながら掻きあげていく上向充損採掘法をとった。そのあと、人工天盤といって鉄筋をはつてモルタルで天盤を作り、下向きに採掘する方法へと変わっていった。
そうした中で、さく岩機の方も、はじめは採掘では手持さく岩機、坑道掘進には、コラムにさく岩機を取付けたものを使っていたが、スタンド付のさく岩機、エアレッグハンマーとかわっていった。坑道掘進にはジャンボが用いられるようになった。
日立では、明治三九年に開さくされた第一立坑が基幹だったが、坑道の加背が小さいので、大型機械をいれようとすると全部分解して運び、現場で組立てて使わなくてはならないというネックがあった。
もう一つは水の問題がある。同じ日本鉱業のヤマでも、豊羽では毎分七トンに対し、日立では二〇トンである。しかも、採掘の深度は、昭和四五年ごろで、豊羽が地並からマイナス三〇〇mに対し、日立ではマイナス八○〇m位になっていて、排水費がかさむことになる。
通気も、自然通気が主体だが深部では局所ファンを使用しなければならない。さく岩機の動力である圧縮空気を送るパイプの延長ものび、ロスが大きくなる。そういうことで、日立の後半は創業当時のような「苦心惨胆」だった。その結果、昭和四八年には第二会杜になり、五六年九月には閉山となった。
北陸・東北と鉱山
村上安正 富山出身という話がでたので、足尾の労働者の出身地の推移を述べると、北陸四県の比重が高い。明治四〇年までの入寄留者の一位は富山で二〇・五%、四県では二三〇三人(四五%)です。大正に入って若干下っていますが、一九二〇年三一・六%、一九二七年二五・九%と、地域別では、関東についで北陸四県は二位になっています。
富山には鉱山はないが、越前・面谷鉱山を発祥とする越前坑夫に富山の人たちが包括され、草倉や足尾の開発に大きな力を発揮したことから、多くの労働力を呼びよせることになったといわれています。
杉本賢治 足尾で閉山を迎えた者です。私の父も富山生まれで、祖父は神岡鉱山で働いていて、明治末期に足尾へ移って、鉱山に三代働いていたことになる。富山は農村地帯で、冬働き口がなく、農家の次三男が飛騨の鉱山へ流れたようです。私の小学校の同級生の出身地もほとんど富山県です。
村上 古田さんの場合、小坂から日立へこられたわけですが、足尾の場合には、官営鉱山からやってきた例が多い。生野から三人やってきて飯場頭になっている。その一人が作家立松和平氏の曾祖父で、生野の地名をとって銀谷組としている。鉱山から掘夫を引抜けば即戦力となるわけです。
加藤 日立の場合は、東北地方が多い。
古田 佐竹氏が常陸の領主だった時、多くの鉱山を開発したが、秋田へ移った時、優秀な山師を全部つれていって秋田の鉱山を開発したそうです。
古田 荒川では、叺に鉱石をつめて坑外に運び、鉱石の質と量から賃金をもらったと父から聞いた。丸太に足がかりを刻んだ雁木を手すりもないところを昇降したそうで、鉱石は自然銅のようなよいものだったそうです。
松井勝明 高小を卒業した昭和一五年に荒晦鉱山に入り、八月に閉山している。一〇月には尾去沢鉱山に移っている。荒川では坑内が深く水が多いため経費に負けて閉めたといわれている。
慶長年間から鉱山がはじまり、最盛期にはかなり多く、私の同年生は学年で二クラスだった。鉱山での文化的水準はかなり高かった。会杜としては、読むな、見るな、書くな─ということで鉱夫の批判力がつかないようにやっていたようだが、かくれながらもかなり勉強していたようだ。
生活の面では、最初はハーモニカ長屋だった。独身者は飯場住いで、三つほど飯場かあった。家族持ちは、飯場に属しながら会社の長屋を与えられていた。
試料場など
大須賀良雄 大正八年生まれの六五才です。父は足尾から引抜かれてきている。私が生まれたのは、御沢の高徳という一段高い所です。長屋には障子はあるが、戸がなく、すだれが下りていた。つぎに今の自然村のあるところに引越すという具合で、従業員がふえるのに従ってどんどん長屋も建っていったのです。本山小学校を昭和八年に卒業したが、その前年鉱山で一八一人の首切りがあった。近在の人たちは“鉱山で首を切る”というので見にきたという話もあった。そんなことから卒業しても鉱山で使ってくれないということで、学校が骨折って一〇人だけ採用することになった。追加もあって一二人入ったが、同級生六二人のうち、一二人だけ採用になったわけです。日給三八銭、休日は月二回です。
はじめは試料場です。各切羽からあがってきた鉱車から試料としてとったものを、ダイナマイト箱を改造した箱につめたものを試料場まで運ぶことからはじまった。秤量場が三カ所あり、試料箱が四〇本ほどあるのを、一人で背に四本、両手に一本づつ下げて運んだ。試料場では、ぬれている鉱石は薪を燃して乾燥させ、大塊はクラッシャで破砕し、ローラーにかけということで粒度を揃えたものを分析するわけですが、その下ごしらえの仕事です。
そのうちに父が怪我をし、家族も多いので、電車に移りたいと志願した。電車は鉱山の花形で、また一日一〇銭の被服手当もついていた。最初は電車のポールもちです。奥の坑道にいくと天盤が低く、体を屈めてポールをもち、目の前でスパークすることもあった。そのせいか片目が乱視になったと思う。一八才位の時、日製でパンダグラフ式電車がつくられ、鉱山で改良してからは一人廻りとなった。架線は直流五〇〇ボルトです。前は小型鉱車を二五台引張ったが、七トン電車になって三〇台引くようになった。その後体をこわして選鉱に移り、鑑定などもやった。第三選鉱で試薬関係のことをやったところで閉山になった。
鉱山に生まれ、育って、人の和ということが大変有難いと思っている。
──入社の時、試験はあったのですか?
大須賀 試験はなく面接だけです。今の久原邸のところに庶務課があった。そこで面接があり、面接者は三人いた。面接の心得として、戸の開閉、受け答えなどは、学校の放課後、何回も特訓をうけたものです。
──一番人気のあった職場は?
大須賀 最初は、全員試料場に入れ、そこでピックアップされたようです。優秀なものは、坑内測量だと思う。
──試量箱一本の重さは?
大須賀 一本15kg位でしょう。四本背負うと腰がきれなかった。箱を落してしまうと、試料の番号札などがおちてわからなくなるので、慎重に運んだ。箱をできるだけ乱暴に扱って、半分位しか量が入らないようにした覚えはあります。
──人の和ということは具体的には?
大須賀 共同水場ですから、隣近所の食物がわかってしまう。供給所から物品をとるわけですが、例えば米がないと隣から借りてくる。日常生活が密接につながっていた。
戦後の日立鉱山
佐藤正幸 私は大正一四年に生まれ、昭和一五年ここの高小を卒業した。父は宮城県栗原郡出身だが、百姓をきらって小坂鉱山にいき、大正一〇年代に日立にきた、最初は御沢におり、つぎに石灰山の長屋に入り、その翌年、私は生まれた。私は鉱山に勤めたくなかったので、日立製作所に入り、専修学校の機械科を卒えた。終戦の時、徴兵で水戸の砲兵隊に入った。日製では今の日立化成桜川工場で航空機の自動操縦装置をつくっていたが、艦砲射撃で工場が破壊されてしまっていた。日製では、在籍していたのだろうが書類もなくなったので出勤しなくていいといわれ、日立鉱山に入った。昭和二一年七月です。
今でも私が感じていることは、鉱山一家といわれるが、ハーモニカ長屋で生活し、隣近所がすべて見通しの中で、お互いにもちつ、もたれつの生活で、一銭の金がなくても、借金をしても子供にひもじい思いをさせずに暮らせたということです。お互いにあたたかく支えあった和があったことが忘れられない。
左合藤三郎 私は、炭坑・鉱山には関係なく都会の中で生まれ育った。名古屋市東区という繁華街の近くで、十軒長屋の一隅です。十軒長屋に井戸が一つで共用でした。そこでは、隣近所のつきあいがざっくばらんで、おすそわけやら物の貸借もおこなわれていて、人間的な助け合いが生きていた。これが戦前の一般的な風習だったと思う。
ただ鉱山では、地域的に限られていて多くの鉱夫が集まってくるということで長く残ったといえるのでないか。
鉱夫の採用など
加藤 先ほどは硬い話をしてしまったが、いろいろな人からの話を聞きながら補足してみたい。大須賀さんの話で、試料箱一つ15kgという話でしたが、私も父から体重と同じ重量のものを背負えるといわれてきた。試料場での初任給は同じだが、体の大きいものは、小さいものより重いものを背負わなくてはならないわけで、その勤怠で、つぎの職場がきめられた。体重と同じものが背負えなければ、労働力として落第です。
日立鉱山では、夜学はじめ各種研修機関があり、知識を身につけさせていた。鉱夫の採用では、採用係は紹介人を調べ、ヘイクロウ(仕事をしないチャランポランな者)だったら絶対採用しない。
紹介人の関門でパスすると、鉱夫になりたい者と会い、まず手を見、握ってみて、労働できるかどうか確めた。その紹介人は、東北地方の人が多かった。もともと小坂鉱山から鉱夫を引連れてきてはじまった鉱山でしたから。また、佐藤さんの言っていた一銭もなくても生活できたというのは、供給所発行の通帳があったからです。もちろん本人の稼ぎ高に応じて制限があり、翌月の給料日で精算するわけです。たまたま病気や、事情があって欠勤したり、請負額が上らないと、通帳使用高が給料より上廻って、「下がり」となる。この場合、保証人を立て、会社が認めれば、前と同額の限度まで通帳が使用できた。
鉱山では、同じ環境の中で生活してきているから、自分の痛さが他人の痛さとしてわかりあえたということがいえると思う。
──全部わかってしまっているから、却ってやりきれなくなるということもあるのではないか。
加藤 それはある。とてもつきあいきれないといってやめていった人もいた。
村串仁三郎 私の生まれは、東京・向島の長屋育ちで、鉱山とは関係はないが、共通するのは貧乏だったということです、大学で炭鉱史を研究しようということで、常磐炭坑には何度かきたことがある。今は、左合さんに刺戟されて、友子研究も手がけている。飯場とか友子という学者からみると悪の根源のようにいわれるが、飯場制度にしても、その時代、時代でそれなりの合理性をもっていた。合理的だが不合理なものもふくんでいた。歴史からみると結果から評価されがちだが、その当時、これがなかったらどうなったかということが考究されていない。悪と必要とが隣合せとなっている。歴史家は、そうしたことを無視し、結果から判断しようとするが、私はできるだけ多面的にものを見ていきたいと考えている。
友子のこと
佐藤正幸 先輩から聞いた話で、坑内事故の時、被災者が友子に入っているか確め、入っているなら助けにいこう。友子に入っていないなら放っておけという。友子とはこんなひどい組織かと思った。しかし、その時代ということを考えると、見ず知らずの鉱山にきて、今のような労働者保護もない時に、鉱夫相互の助け合いをする必要性というのも感じないわけにはいかない。
村串 ふとした経緯で、昭和四三年の日立鉱山の取立免付を入手したが、これが最後でしょうね。
──ほかの鉱山は、もっと早く解体したようだが、日立が永続したのは何故ですか。
左合 他の鉱山は戦時中になく、一部残った鉱山でも、戦後GHQの命令で解体した。日立はどういう理由だかわからないが、友子会という形で存続した。
──友子の互助関係がまずあって、会杜に取込まれるという歴史的過程があって、なおかつ存続したというのは、本来の関係がそのまま残ったのか。
左合 私の考えでは、友子の基本は坑夫で、友子に加入することは坑夫に昇進することになる。取立式は、そういう友子集団の中に一人前の坑夫として認めるということです。従って友子取立免状は坑夫昇進免状でもある。
近代の友子では、救済機能だけが重視されているが、それだけでなく、坑夫としての躾、坑夫としての技能養成など、坑夫杜会で一人前であることが前提となっていた。
近代になって、友子のもつ機能がかわっていく。まず手掘坑夫の技能は、機械掘への移行で企業が独自の教育養成をおこなうことで、技能教育がなくなる。つぎに坑夫社会での躾や交際は、企業の労務政策に包括され、健康保険の実施に伴ない、友子は大きな打算をうける。救済機能についても、企業の中で救済組織ができて、吸収されるようになる。
こうした過程を経て、友子は基本精神の存続ということのみになり、昭和初年ごろから友子が解体の道を辿ることになる。
松井 友子について問題になるのは、何時発生したかということからはじまってくる。今までは明治年間が定説となっていたが、私の調べた所では、天明年間に一宿一飯制が制度化されている例を見出した。
友子については、発生から歴史的過程を経てどう変わったかという視点で捉えないといけない。そうでないと、個々の鉱山での友子についての解釈を誤ることになる。
加藤 日立に永代記録簿があるが、諏訪が古く、本山には新しいものしか残っていない。それをみると、途中から隣山立会人や労務立会人がでてくる。本山へ炭坑から隣山立会人依頼の回章が届いて、本山では、単に取立式立会のみでよいのかと念をおしてから出席している。
松井 はじめトンネル坑夫は、友子に加入させないという内部規程も少なくとも明治中期ごろまでもっている。ところが大正に入って、加入を認め、さらに樺太の朝鮮人坑夫も加えている。昭和年代になると、年令も若くなり、小学三年で友子に加わるものもでてくる。免付も活版で刷ったものもでてくる。このように、時代や地域社会の状況の下で、さまざまな形が出てくる。
加藤 昭和一〇年ごろ、友子大集会で奉願帳交際を一切停止することをきめたと、永代記録簿に記されている。日立の取立については、当初取立式の費用は取立てられる者の自弁だったという話である。
戦後の友子存続については、GHQが友子調査に来山した。その折、友子をどうするのか協議するため、友子大集会できめ、存続をきめた。GHQとの衝にあたっていた野村採鉱課長がその経緯を説明し、GHQがそれを認めたという話です。この野村さんは、そのあと所長をやり規在帝国石油の会長をやっている。彼は国際人で、語学も湛能で絵も描いていた。恐らくGHQへ友子について説明した時は、友子が構成員の意志で決定し、会杜が一切介入しない民主的団体だと云ったのではないかと思う。
松井 GHQはコレクト政策を打出し、中間搾取の排除などを命じた。そこで生まれたのが職業安定法における人入れ稼業の廃止だった。コレクトは、土木、炭坑、鉱山をしらみつぶしに調べた。とはいっても全部網羅できなかったわけで、土木などは大分ウラをかいたようだ。
こうした中で、友子は解散に追いこまれるわけで、日立鉱山の友子が存続したことは、調べられた側の対応のあり方がよかったと想像するほかない。
加藤 日立には、村方飯場もあり、山中には拘束されなかった。
大須賀 昭和一七年に私も友子の会員になった。私の父は坑夫で、子分がふえてきて、借金の保証をはじめ交際がかさむ。子分が逃げれば借金の肩代りをするわけで、そのため相当貧乏したものだから私は友子がきらいだった。ところが友達が私の印をついて願書を出してしまった。それで友子に入らざるを得なくなった。新大工の会費は一円五〇銭でした。
親分や兄分には折詰がついたが、新大工にはない。取立式では、親分と向い合って、こんぶ茶をのまされた記憶がある。その時聞かされたのは、鉱夫の引抜きを防ぐため、ヤマ全体が家族になること、親分、兄分、子分という関係で結びつくんだということでした。
ヤマが盛んな時は、翌年は兄分になるが、後続がいなくなると、困ってしまうわけで、しまいには、赤ん坊を子分にする。式場まで背負って連れていくようになった。友子になると、葬式の手伝いなどもさせられた。
松井 荒川鉱山での同級会に出席して感じたのは、鬼子母神だけが地元の人によって守られていることだった。それは、鉱夫の妻たちが崇めているということです。彼女らは、或は流産し、また子供に充分なことをしてやれなかったといううらみがあり、それを鬼子母神がまもってくれるというので、なけなしの金を送ってくるのだそうです。ここにも鉱夫たちの和が、こうしたことにもあらわれている。
左合 私が「労務管理年誌」の仕事に携った時、日本の近代を担った産業は繊維、重工業、鉱業の三本柱だと主張し、年誌の中でも、ほぼ同列に扱われたと考えているが、一般的には、鉱山の評価が高くない。これは誤りだと今も思っている。