近代における鉱山技術の展開と労働力編成について
日立鉱山の特質
久原房之助が日立鉱山を買収し、経営に入ったのは、〇五年一二月であった。かつて日本の五大銅山とよばれた別子、足尾、尾去沢、小坂、日立のなかで、最後に近代鉱山として参入したのである。そこに、他の四大銅山とは自ら異なったものが存在していることに留意しなくてはならない。
日立鉱山の選鉱場設定にあたって、足尾の実操業の状況を視察してレイアウトしている例からも明らかなように、一九〇〇年ごろには近代技術大系が定着した鉱業技術を選択して採用できる優位性がある。同時に足尾や別子で起った鉱害に対しても、事前に対処する体制を整える心構えが可能であった。立地条件としては、鉱山から五粁に常磐線が通じているという鉱山としては交通至便の地にあり、製錬用石灰石や石灰の産地に近い。
また鉱山そのものが若く、別子と同タイプの鉱層鉱床で、鉱床全体の探査、採鉱計画をたてる上でその経験が役立てるという後発企業の優位をもっていた。含銅品位そのものは他の四大銅山より低位で二%程度であったが、このころ一%前後の貧鉱を大量処理する体制へとすすんていた。
鉱層鉱床のような単一鉱床から一定鉱量を産出するためには立坑開さくによる立体的採鉱の進行が不可欠の条件であり、ハンマ式さく岩機による掘進ができたことも産銅量を急速にあげることに貢献した。
日立鉱山の大きな特長は、これまでの鉱山が自山鉱を主体にした一山一製錬所方式であるのに対し、その立地条件を生かし、買鉱製錬所として機能するよう設けられたことである。一二年の製出高で買鉱率は、金八五%、銀八七%、銅三六%であり、金銀鉱は製錬用熔剤として使用する珪石を含金銀珪酸鉱として使用した。
久原鉱業は、日立鉱山を中核として中小鉱山の買収をすすめ、同時に買鉱製錬所として佐賀関製錬所を西の中核としてその機能を増強した。
一方、鉱山における機械部門として発足した工作課は、一二年日立製作所となり、二〇年には独立に消極的な久原を説得して、日立製作所として独立する。鉱山の機械修理部門としては、すでに足尾、別子が歴史と実績をもっていたが、住友機械製作が独立したのは三四年であり、古河は社内部門として終始していることに注目したい。鉱山から機械メーカーとして転進した例としては、〇二年石川県小松町遊泉寺銅山の機械修理工場として発足し、二〇年閉山後、翌二一年小松鉄工所として分離独立し、今日の小松製作所となっている。近代工業が鉱山を母体として生まれ育ったこと。鉱山から早い時期に独立したものが、今日の大をなしていることに注目したい。
労働力編成については、鉱山全体としては安定期に入ってからの創業であり、採鉱の機械化などの対応も比較的スムーズにすすめられたものと思われる。飯場制度についても、時期的にみて、世話役制度に近い形態で出発したのではなかろうか。日立については、これからいろいろ学ばなければならないが、日本の銅鉱山としての位置づけとしては、近代的鉱山として当初から発足していることを念頭におき、その特質をふまえて研究をすすめなければならないと考える。
日立合宿例会報告 『金属鉱山研究会会報』第41号(1984年12月)
[註]
- 本稿は1984年の「近代における鉱山技術の展開と労働力編成」と題する発表から「日立鉱山の特質」をぬきだしたものである。村上さんには国内鉱山における日立鉱山の位置づけに関する著述に「採鉱技術の近代化」「新技術の導入と人員整理」(『鉱山と市民』所収 1988年)があります。こちらもあわせてご覧ください。『金属鉱山研究会会報』は一般に目にする機会の少ない文献であるのでここに紹介する。なお著者には『足尾銅山史』(随想舎 2006年)という大部の研究書がある。著者の長年にわたる足尾研究の集大成であると同時に日本近代の金属鉱山技術史を俯瞰する優れた著述となっている。