薩都の里 さつのさと
常陸国風土記にある地名由来 日立篇

「常陸国風土記」に登場する薩都の里。この薩都の由来を次のように説明する。

此より、北に、薩都里さつのさとあり。いにしへ国栖くず有りき。名をば土雲つちくもふ。ここに、兎上命うなかみのみこといくさおこしてつみなほろぼしき。時に、く殺して、「さちなるかも」と言へり。りて佐都さつと名づく。

訓読文は、沖森卓也ほか編『常陸国風土記』(2007年 山川出版社)を参考にした。

長幡部の社[1]から北に薩都の里がある。いにしえに国栖[2]の民がいた。名を土雲という。ここに兎上命[3]は兵をおこして討伐し、土雲を滅ぼした。このとき土雲をすっかり殺して、「幸いかな」と言った。これによって佐都と名づけた。

ヤマト王権による東国平定の物語りである。

薩都を佐都(サツ)と読ませる。薩はサチとしか読めない。都はツで、したがって薩都はサチツとなるはずだが、この点について「薩都の読み」をご覧ください。

この薩都の里を流れる川について、風土記は後段で「小川あり。薩都河と名づく。源は北の山に起こり、南のかた同じく久慈河に流る。」と、サの音に薩をあてている。

薩都河は、里川のことである。

[註]

  1. [1]長幡部の社:常陸太田市幡町にある。
  2. [2]国栖:古代、日本各地に散在し、短身長肢で原始的生活様式によって朝廷から異種族と目された土着の先住民。
  3. [3]兎上命:不詳

薩都の里はどこか

中世には公式ではないが「佐都東郡・佐都西郡」があり、それらは里川をはさんで東岸・西岸であった。これは薩都の里はひろく里川流域をさしたことを意味していよう。

遺称地

常陸太田市に里野宮町がある。江戸時代には里ノ宮(薩都神社)がある村という意味で名づけられた「里ノ宮村」「里野宮村」があった。薩都神社の本宮は、賀毘礼の高峰のふもとの御岩神社境内にある。薩都神社が現在地に移されたのは、大永2年(1468)佐竹義舜によってである。