史料 日立村長佐藤仙三郎「百年の長計をなせ」
明治43年(1910)4月10日付『いはらき』新聞
百年の長計をなせ
日立村長佐藤仙三郎氏談佐藤村長は温厚の長者なるが穩健なる口調もて説いて曰く、私の村の経費は一ケ年一萬四千圓を要する。而して日立鑛山は一大財源である。教育費一萬圓の内七千圓は鑛山の寄附で、三千圓は村落の支弁、残七千圓の経費の内三分の二は又鑛山の寄附で維持して居る。農業の如きは毎年衰頽する傾向があつて誠に遺憾の次第である。煙毒の爲め多少は山林の樹木も枯れ、耕地迄も被害はあるも、鑛山側に於て今日の處は善意的行動に出で、適當なる補償をなしつつある故、却て農家の懐具合は良く、當地方は鑛山の爲め一大湿を蒙つて、金廻りも宜敷なる位である。鉱業地としての本村は寔に現時は全盛時代で、大雄院地方は日を逐ふて人家稠密となり、昔狐狼天狗の巣窟も今は都會と化した觀がある。併しながら將來農専業者として本村民は甚だ以て心痛に絶えぬのである。須く今日に於て百年の長計を立つべき時であるまいか。私は當局者にして一村を料理する上に於て鑛業税割を四十一年度五百圓、四十二年度千圓を基本財産に編入し、かくして毎年貯蓄せば將来村經濟を補ふて充分餘裕を生ずべしと思ふ。今より村民も長夜の睡より醒めて將來の爲に一大覚悟を要する時である。私は此事が念頭を去らず毎つねに心配して居る。本村の如きは財源豊富にして他町村より負擔が輕い、村民も心掛けて今より勤儉産を治むる事を希望する。
*原文には句読点はないが、引用者が付した。
[解説]
明治43年、1910年は、久原房之助による日立鉱山創業から5年たった時期である。鉱山では鉱毒水問題に解決の見通しがたち、中央(大雄院)製錬所は操業を始め、煙害問題に苦慮しているさなかである。
さらに小平浪平が5馬力モーターを製作し、日立村大字宮田小字芝内に工場を建設した。つまり日立製作所の創業年である。
そのようななかでの日立村長の発言である。冷静で客観的な目で村の行く末を案じている。