蟄虫の囁き 煙害対策に尽力した若き群像

水庭 久尚

この題名は、ある一冊の本の書名でもある。この本は大正初期、日立鉱山の煙害激甚期に煙害防止の当事者として、画期的な対策を講じた鏑木徳二博士のご遺族である鏑木豪夫氏から提供されたものである。「雲野潔翁遺稿併追憶集」というのが、この本の副題である。

雲野潔氏は盛岡高等農林学校を卒業して、明治四二年日立鉱山に入社し、煙害防止の仕事に従事した。彼の直接の上司が、日鉱煙害対策の中心的存在であった、前記の鏑木徳二氏であり、さらに庶務課長として角弥太郎氏(後の日鉱所長)がいた。雲野氏はこの二人の上司から後々まで、有形無形の援助と指導を受けたのである。

『蟄虫の囁き』を読んで、私が意外に感じたエピソードを、ここに紹介してみたいと思う。それは末永延寿という人の寄稿による「日立鉱山農事試験場時代の鴻恩」と題する一文である。末永氏は大正四年八月、日立鉱山の農事試験場に就職し、煙害に関する調査・分析の仕事に従事していた。

雲野様は温厚懇切なお方で、ご相談申し上げ易いことで、場員から尊敬された人格者であられた。殊に私にとって終生忘れられないことが二つあります。その一つは大正四年末頃に雲野様と武田様とが協議されて、私を盛岡高農校へ進学させようとの事で、鉱山の最高責任者たる山長さんちょうの角弥太郎様に特に進言して下さって、入学後の学資のことまで配慮して頂き、進学受験準備のため、別の出張所へ転勤を命ぜられ、その出張所長に対し「末永には仕事をさせないこと、別室を与えて受験勉強をさせよ」との内示をして下さったので、私にとっては実に勿体ないご配慮で唯々感銘の至りであった。かくて翌年三月盛岡市へ出かけ入学受験の結果、漸く入学することになったが、進学に就いて雲野様と武田様から私の父親に対し懇切なお手紙を出して下さったので、父としても意外なご親切に感激して、宜しくとお願い申し上げる外なかった。そして私は雲野様と武田様の後輩学生となり、角様からの温情深い学資援助まで拝し、大正八年三月に卒業が近づいた頃、一年先輩の宮沢賢治氏が前年春卒業以来、母校研究科学生として残り、恩師農学博士関豊太郎先生のもとで研究を続けていたけれど、仏教勉強のために研究生を辞するから、その跡へ研究科学生として私を指名し、恩師のご内諾を頂いたから是非進学勉強を続け給えとの意外な勧誘を受け、私は早速、日立の大先輩雲野様と武田様に書面でご相談申し上げた処、「地質土壌学界の権威、関先生のもとで勉強できることは願ってもない幸運だと思うから、宮沢君の推薦に応じて是非とも勉学したら良かろう」との御返信だったので、研究科に残り農地土壌の肉眼鑑定、理化学的分析等に関し専門的な勉強をすることとなったが、これが私の進学に関する両先輩の第二の御配慮であった。かくて大正九年五月に研究証書を授与されて就職したのが盛岡中学校の化学教師であった。就職に就いても日立の大先輩に相談申し上げたことは勿論であった。

これを読むと、日立鉱山は若く有望な職員を進学させ、学資の援助までして修学させているが、それは必ずしも卒業後は鉱山の仕事をさせるためのものではないことがわかる。それにしても、煙害問題に苦悩し乍ら生産第一主義をとり、経営の近代化と合理化を図っていたように見える当時の日立鉱山の意外と大らかで人情的な一面を見せられた思いがする。この文面には、末永氏の雲野氏らに対する感謝の真情がにじみ出ている。

当の雲野氏自身もまた、彼の上司であった鏑木氏や角氏に対しては、並々ならぬ畏敬と親愛の気持を抱いていたのである。それは、やはり『蟄虫の囁き』の中に、雲野氏が「日立鉱山」と題して書いている一文によっても、十分うかがい知ることができる。

日立では、同学関係其他に多くの良き盟友を得、今日に至るも尚、当時其侭、断金の交りを続けて居る。角と言ふ当時の所長、係長の鏑木さん、後に係長になった宮下氏、先輩庵原君、之等の人々は、私が現在の事業を始めてから此方、約卅年、変る処なく、今以て其後援を得て居る事は、感謝に余りある次第である。殊に、日立での研究で、林博(註林学博士)となられた鏑木さんには、多くの良き指導を得、知遇に浴した。

雲野氏は大正八年、勤続満十年の日立鉱山を退職し、自ら出雲ゴム製造所を設立し、その経営に乗り出した。鏑木氏と角氏は、この会社の出資社員となり、陰に陽に、後々まで雲野氏の事業を支援したのである。

このような事実を知るにつれ、私は日立にも古きよき時代があったという感を深くした。そして日立鉱山という企業と、そこに働いた人々の大らかで夢多き理想主義的な一面を知ることができると共に、鉱山の煙害対策という地味でかつ後追い的な仕事にさえ、自己の理想を掲げ、夢を描き、その実現を目指して努力し、青春を燃やした人々がいたことに驚きを感じたのである。

雲野氏はまた、その著書の中で、日立鉱山時代を回想して次のように述懐している。

毎日、草鞋履き、カモシカの如く山野を馳け廻り、無闇に働いた。茲では僅か一会社の一係に、同学の若き学徒十数名、何の私心も無く、相互に相磨き、相提携し、懸命に努力した。こう言う気持で働き得た事は、無上の幸福であったと思う。

日立鉱山の煙害対策に情熱を燃やし、日鉱農場で鉱害の絶滅を夢み乍ら、青春を生きぬいた若き群像に、限りない共感と敬愛の思いを寄せるものである。

鉱山の歴史を記録する市民の会『会報 鉱山と市民』第4号
(1984年4月1日)