水木・密筑・調
常陸国風土記にある地名由来 日立篇
密筑の里
「常陸国風土記」に登場する久慈郡の密筑の里は日立市水木町一帯である。
高市と称へるあり。此より東北二里に、密筑里あり。村の中に浄き泉あり。俗、大井という。洽く冬温かなり。湧き流れて川と成る。夏の暑き時には、遠邇の郷里より酒と肴とを齎□きて男女会集ひて、休い遊び飲み楽しむ。其の東と南とは海浜に臨む。石決明、棘甲贏、魚貝等の類、甚多し。西と北とは山野を帯ぶ。椎・櫟・榧・栗生ひ、鹿・猪住めり。凡て海山の珍しき味わい悉に記すべからず。
訓読文は、沖森卓也ほか編『常陸国風土記』(2007年 山川出版社)を参考にした。
由来記述のない密筑
風土記は、密筑の里について上のように字数をさいて説明しているにもかかわらず、密筑の地名由来は書いていない。
日立市域について言えば、久慈・薩都・助川・遇鹿・多珂・飽田・仏の浜・藻島・黒前などの地名の由来を記しているのだが、密筑についてはふれていない(賀毘礼の高峰についても同様に記さない)。
なぜなのだろうか。
わからなかったから。古老たちの記憶にもなかったから。
それとも、わかりきったことであるから。「みつき」にどんな漢字をあてようが、「みつき」で当時の人々には意味がわかった。だから説明はしない、というのか。
石決明と腊鮑
風土記では、密筑の里の海山の産物のすばらしい味わいは表現しきれない、と言っている。なかでもアワビ。他の浜や「肥前国風土記」「出雲国風土記」では鰒・鮑・蚫と書かれるなかで、密筑のアワビだけが石決明と表記される。
石決明 とは、事典は(1)あわび(鮑)の漢名(2)鮑の殻を粉末にした漢方薬の一種。カルシウム分が多いため樟脳と合わせて、結膜炎などの眼病薬、強壮・強精剤としても用いられる、と現代風に説明するが、これは古代においては不老長寿の薬なのである。
外の浜でもとれるアワビ、それを乾燥させ、粉末にして石決明にする高度な加工技術を常陸国ではこの密筑だけがもっていたということである。
平城宮跡から出土した木簡に次のようなものがある。「常陸国久慈郡腊鮑大贄三斤」。裏面には「天平四年十月十六日」とある。天平4年は西暦732年。風土記編纂の詔から20年後のことである。
腊鮑は干し鮑のこと。贄は天皇への貢納物である。しかも大贄(贄の敬称で、立派な贄の意)である。この久慈郡の腊鮑とは密筑の石決明のことである(久慈郡でアワビを産するのは密筑しかないのだから)。日本でも石決明は不老長寿の薬として認識されていたからこそ、天皇への貢ぎ物とされたのである。
貢・調
貢・調はともに訓読みすれば「みつき」である。租庸調の調である。したがって密筑の文字が表す「みつき」という音には貢・調の意味がある。
密筑の里は、石決明を調としてさしだす村、であった。
「みつき」が何を意味するか。朝廷にはわかりきったことだった。わかりきったことを風土記の編纂者は書かなかった。古老が記憶する由来もなかった。このように考えたい。
水木町
密筑に水木という漢字をあてるようになるのは、どうやら江戸時代からであるらしい。この水木は不思議なところである。ひとつひとつは奇妙でもなんでもない。しかしあつまると、不思議に思えてくる。思いつくままあげてみる。
- (1)古墳が市域でもっとも多い地域である。前方後円墳2基、円墳15基がある。市内に前方後円墳は3基。そのうち二つが水木にあるのである。一つの円墳から大きな家形埴輪が二つも出土している。この円墳は前方後円墳ではなかったか、という人もいる。としたら市内の前方後円墳4基の内3基が水木に集中していることになる。
- (2)金砂の神が水木の磯に出現したことにはじまる祭礼(金砂神社磯出大祭礼)が行われる。金砂の神が水木の浜に降りてくるのである。大祭礼は72年に一度行われ、初回は仁寿元年(851)だという言い伝えがあり、17回目が2003年にあった。
そう言えば、金砂神社の神体はアワビであったか。 - (3)泉が今でも湧きでている。日立市域ではこれほどの豊かな湧き水はここにしかない。
- (4)伝統的な食品工業が盛んである。市内で一番だろう。江戸時代からたいていの村にはいた製麺(うどん)、納豆、味噌・醤油、菓子をつくる職人たちの技術が、水木には今でも息づいている。
本ページは、2011年に亡くなられた志田先生の「密筑の磯と石決明」『ふるさと日立検定 公式テキストブック 中級編』「石決明と鰒」『常陸国風土記と神仙思想』の記述に拠っています。ご冥福をお祈りします。
本ページの密筑と石決明、調についてはすでに笹岡明さんが、「山に登った水木浜のアワビ」(『郷土ひたち』第51号)で指摘していました。調査不足でした。あわせてご覧ください。2014-08-15