賀毘礼の高峰 かびれのたかみね
常陸国風土記にある地名由来 日立篇
「常陸国風土記」に登場する久慈郡の賀毘礼の高峰。この峰にまつわる話しを次のように記述する。
薩都里あり。…東の大き山を、賀毘礼の高峰と謂ふ。即ち天つ神在す。名をば立速男命と称ふ。一名は速経和気命なり。本、天より降りて、即ち松沢の松の 樹の八俣の上に坐しき。神の祟、甚だ厳し。有る人、向きて大小便を行る時は、災を示さしむ。故、疾苦あれば、近則に居む人、毎に甚く辛苦みて、状を具べて朝に請いまをす。片岡大連を遣して、敬ひ祭らしむるに、祈み曰さく、「今、此処に坐せば、百姓近く家して、朝夕に穢臭はし。理、坐さしめず。宜、避り移りて、高山の浄き境に鎮まりますべし」とまをす。是に、神、禱告を聴きて、遂に賀毘礼の峰に登りましき。其の社は、石を以ちて垣とし、中に種属甚多し。幷せて、品の宝、弓・桙・釜・器の類、皆な石と成りて存れり。凡て、諸の鳥の経過るは、尽に急く飛び避りて、峰の上に当ることなし。古より然して、今も同じ。即ち、小水あり。薩都河と名づく。源は北の山に起こり、南のかた同じく久慈河に流る。
訓読文は、沖森卓也ほか編『常陸国風土記』(2007年 山川出版社)を参考にした。
賀毘礼の地名由来
賀毘礼の高峰の地名由来は、書かれていない。カヒレ・カビレの音に賀毘礼という漢字を宛てた。編纂者もわからなかったのだろう。地元の古老も知らなかった。
賀毘礼の高峰はどこか
この高峰について、いくつかの比定地があげられていた。しかし現在では以下の点から固定されたといえる。
- (1)薩都河に近い山であること。
- (2)久慈川に合流する薩都河は里川に比定できること。
- (3)石垣があること。
- (4)さまざまな宝、弓・桙・釜・器などが石と化していること。
- (3)と(4)からは高峰に「石」が強くイメージされる。
賀毘礼の高峰は御岩山頂
この4点において、日立市入四間町にある石がむきだしの御岩山の山頂がもっともふさわしい。入四間の関右馬允が撮影した写真「賀毘礼山遠足記念」(『カメラでつづった半世紀』)は、まさに岩、石が存在感をもってせまってくる異形の風景である。御岩山頂は高鈴山の北へ走る稜線にあって、東側からは見えず、西側つまり薩都河(里川)からの景色なのである。また山頂附近からは縄文時代や古墳時代の石器や土器が出土していることも傍証となろうか。
かつて賀毘礼の高峰は日立市宮田町の神峰山だとされていた時期がある。「カミネ」が「カビレ」と似ているからであった。しかし神峰山は東側からその神奈備型の山容を眺められるが、西側つまり里川からは見えない。その点において神峰山のふもとを流れる川は宮田川で、まっすぐに太平洋にそそぐ。久慈川に合流しない。山頂は杉でおおわれ、石は露出していない。神峰山説は成立しない。後に立速男命が御岩山頂から神峰山頂に移ったことがあるかもしれないが、風土記が編纂された時代は、賀毘礼の高峰は御岩山頂であったことは疑いない。
本ページは、2011年に亡くなられた志田先生の「賀毘礼の高峰」『ふるさと日立検定 公式テキストブック 中級編』の記述に拠っています。