大正・昭和の電話番号簿
明治三七年(一九〇四)七月、日立村赤沢鉱業合資会社は、本山事務所と助川駅前荷扱所・助川出張所間に私設電話を設置した。民間では茨城県内はじめての電話開設であった。
その後県内では、明治四〇年に県西地方で行なわれた陸軍大演習を契機に、県西の都市部に電話が開設されてゆく。そして明治四四年には、県内二三地区で電話局が開設され、電話は急速に普及しはじめる。日立地方では、その年の四月六日に日立鉱山(日立村)・川尻(豊浦町)・河原子(河原子町)・久慈浜(久慈町)の各郵便局管内に電話が開設された。
日立地方の電話の普及状況は、大正一一年(一九二二)一〇月『茨城県各地特設電話番号簿』と昭和四年(一九二九)八月『茨城県特設電話番号簿』(茨城県立歴史館蔵写真版)によって知ることができる。番号簿には、加入者名のほかに住所(所在地)と全部にではないが職業が記されており、いくつかの興味深い事実をひきだすことができる。ここでは日立鉱山と助川(高鈴村)の二つの隣り合った郵便局管内の番号簿から、大正後期から昭和初期にかけての両地区の産業と市街地の拡大の様子をみてみよう。
まず大正一一年の電話番号簿からみよう。日立鉱山郵便局管内の加入者は二二名、このなかに日立鉱山事務所、久原鉱業所、日立製作所、角弥太郎(日立鉱山所長)、青山隆太郎(日立鉱山社員)といった日立鉱山関係者(事業所)の名が一三名ほど確認できる。このほかに鉱山郵便局管内の日立村宮田地区には、洋服商、呉服商、雑貨商などを営む商業者六名が電話を設置している。
助川郵便局管内の電話は、日立鉱山郵便局のそれより遅れ、大正七年(一九一八)二月に通話を開始している。その助川の大正一一年の加入者は、五〇名(内一一名は日立村宮田地区居住者)にのぼっている。日立鉱山および日立製作所関係の加入者はわずか二名、大半は商業者、諸営業者たちである。たとえば時計・呉服・洋品・牛乳・自転車・雑貨・書籍・金物・乾物・薬種などの販売業者たちである。そのほか運送業・旅館・飲食業・医院・工事請負業者などもみられる。鉱山郵便局管内と比較して、助川地区では広範囲にわたる営業活動が繰り広げられていることがうかがえる。
電話番号簿は、地域の産業の様子をみるのに万全な史料と言えないまでも、その一面をとらえていよう。その意味で日立鉱山と日立製作所以外に鉱工業者あるいは製造業者がみられないことが、宮田、助川地区の特徴であると指摘できる。言いかえれば、二つの大企業とその従業員の生活物資を供給する諸営業者をもって、宮田・助川地区の市街地は形成されているのである。
昭和四年の電話番号簿をみると、次のような変化が見られる。
日立鉱山郵便局管内では、二六名の加入者があり、大正一一年より若干の増加にとどまっている。鉱山以外の一般営業者は七名のみで、大正一一年時点とほとんど変りない。一方、助川郵便局管内の加入者は九六名(内宮田地区居住者一五名)と倍近くに増えている。その増加の中心は商業者で、主要なものをひろうと、雑貨商・食料品店・料理店・旅館業・医院などである。
昭和初期にはまだ日立製作所海岸工場は稼動しておらず、大正末期に電線工場が助川地区に進出していたにすぎない。しかし大正後期には、すでに宮田地区から助川地区へ市街地が拡大し、商業の中心も助川へ移動していること、昭和初期の助川地区の商業活動は、すでに宮田地区をしのいでいることを、二つの電話番号簿から間接的にだがうかがえる。これは日立製作所の工場と従業員住宅の助川地区への進出が、商業者の同地区への参入を加速させたのである。
大正九年(一九二〇)の国勢調査によれば、日立村の商業人口は高鈴村のそれを上回っている。ところが昭和五年(一九三〇)には、わずかだが助川町(旧高鈴村)の商業人口は日立町のそれを追い越し、両者の位置は逆転した。こうした変化はあるにしても、宮田地区と助川地区の商店数は、電話番号簿にみられるほどの差はないと考えられる。電話番号簿にみる助川地区商業の優位性は、電話設置のための資金力、つまり零細でありながらも経営基盤のたしかさと、電話導入による経営規模拡大の意欲に、その要因が求められるのではないだろうか。つまり助川地区の商業は、宮田地区からの等質な拡大によってではなく、宮田地区のそれとは質的な差異をもって成立し、拡大をとげたものと考えられる。それにしても、依然として宮田、助川の町は、日立鉱山と日立製作所の二つの大資本と多くの雰細規模の商業をもって都市を形成していることに、変りはない。
<図版「日立鉱山特設電話加入者名及番号」は略>
鉱山の歴史を記録する市民の会『会報 鉱山と市民』第4号(1984年4月1日)