常陸国風土記における地名の文字表記
地名に文字を宛てることは統治・支配に不可欠

島崎 和夫

文字を知らなかった

文字といってもそれは漢字のことであるが、風土記編纂時に常陸国で文字を知っていたのは、国府や郡家の役人たちだけのようだ。茨城県内出土墨書土器を集成した仕事がある。『茨城県教育財団研究ノート』だったと思う(とてもいい仕事です。号数は失念)。そこには日常で使用されるこの時代の土器(土師器・須恵器)の墨書土器約1700点が一覧表で紹介されている。それによれば8世紀前半、つまり風土記編纂時のものは数点。8世紀後半から増えはじめ、9世紀のものが多数という報告であった。

風土記編纂時において役人たちをのぞけば、常陸国の住人は文字(漢字)の存在すらしらなかったといえる。地名があっても、文字にはなっていなかった。風土記がはじめて常陸国内の地名に文字をあてたのである。

地名は国府の役人がつけた

風土記の編纂の詔は、郡郷の名に好い字をつけよ、と国府の役人に言っている。つまり役人がすくなくとも公式地名となる郡郷地名を漢字で決めることを認めているのである。住人は文字を知らず音でよんでいるにすぎないのだから。言い方を変えるなら、地名をさだめ、文字にする権限は政府にある、というのが風土記編纂の詔である。

このとき中央から派遣された役人たちは次のようにして、郡郷名を決めたことがうかがえる。

(1)郡名は地元の由来、古老の話をもとに漢字を宛ててつけた。たとえばクジラから久慈郡というように。

(2)郷・村名は、地元の由来をもとにつける。

(3)あるいは、もともとあった地名(音)に漢字をあてた。

(4)地元の由来、古老の話からといっても、倭武の説話に結びつけられるなら結びつける。常陸国にしてからが、倭武天皇が名づけたとの説も紹介しているが、孝徳天皇(在位645—654)のときに常陸国に派遣された二人の役人によって名づけられたと風土記は言っている。

地名の漢字に意味はない

漢字に意味はない。たとえば久慈からクジラを、助川の助から鮭のおやのスケを導くことはできない。音に漢字をあてただけのこと。意味はその音にある。あてられた漢字から地名の語源や意味を探ろうとしてはならないことを風土記の記事は教えている。

漢字2文字の好き字をあてるのは

昭和初年、折口信夫は大学の講義で風土記にふれて次のように述べている。

…土地の名をきめようという努力がみえる。もう一歩、つっこむと、宛て字をきめようという努力がみえる。それは一つは当時土地の名が変わりやすかったので、これを固定させようとしたので、二つの別の意味が含まれているのである。それで地名の表記法を一定しようとしたのであるが、見た眼を同じくするために、たいてい二字にしようとしたことがみえる。

「国々の歌、諺物語—常陸風土記—」『折口信夫全集 ノート編』第2巻

いくつかの風土記研究書で「二字(漢字二字)の好き字」をつけよと編纂(撰進)の詔を紹介しているが、しかし漢字2字でつけよと詔は言っていない。「畿内七道諸国郡郷名着好字」とだけである。漢字2字で地名を表記させたことをはじめに指摘したのは、折口信夫である。その理由は「見た眼を同じくするため」だと。

日本の国名は、7世紀以前は「倭」である。中国から与えられた国名である。倭は1文字である。中国からはワとよばれ、日本ではヤマトとやがてよぶようになる。そして「日本」という国名が中国から承認されるのは唐の時代8世紀初めのことである。このとき「日本」はヤマトと訓じた。風土記編纂の詔がだされる直前のことである。

日本。2文字である。中国は夏・殷・周・漢…隋・唐…。一文字である。そして省名、都市名は二文字である。中国の省か都市に相当する二文字の日本。

旧唐書 く とうじよ 』は「日本国は倭国の別種なり、其の国日辺に在るを以って名となす。或は曰う。倭国自ら其の名の雅ならざるを にく み、改めて日本と為す」と言っている。ヤマトの政治をつかさどる人々は、倭には「したがう」という意味があり、好ましい漢字ではないと感じていたのである。だから風土記の編纂にあたって地名には好き字をつけよ、なのである。

好き字であること、さらに折口が指摘するように2文字で表記するルールらしきものがあるのは、「見た眼を同じくするため」だけではなく、上のような背景があってのことと考える。

なお『延喜式 巻第二十二 民部省上』(延長5年(927)12月26日成立)に「凡諸國部内郡里等名、並用二字、必取嘉名」とある。2文字ルールはここに出てくるが、この指示がだされた時期はわからない。[この段落は、2016年7月13日追記]

風土記における地名

2文字の例。郡名はすべて2文字である。郷村名も山河の名前も2文字である。

1文字の例は少数だがある。行方郡に かすみ さと の里。那賀郡に あわ 河。久慈郡に たま 河がある。それぞれの音が意味するヤマト言葉に対応して漢字(漢語)があった。だから一文字もやむなしということであろうか。

3文字の例もわずかだがある。 伊多久 いたく さと 布都奈 ふつな 波取武 はずむ の野・ 安布賀 あふか むら 。しかし3文字はみな、万葉仮名をあてて音を表現したにすぎない。久慈郡の 賀毘礼 かひれ も万葉仮名をあてて読みを表したものである。常陸国風土記の編纂者はそれら3音の読みにめでたい2文字をあてることができなかった。思いつかなかったのだろう。ところで安布賀は久慈郡の 逢鹿 あふか に音は同じである。逢鹿には倭武の由来がついている。同じ話を二ヶ所でするわけにはいかないということか。

大半は2文字である。

そしてそれら地名には、たとえば郡家から○○方角に○里と位置が示される。

統治の道具としての地名

名づける。しかし音には記録性がなく、発しているそばから消えてしまう。文字を与える。文字をもつことで、その存在が固定され、ひろく認識され、定着していく。統治がおよぶ範囲を国・郡・郷に区分し、それぞれに名づけ、文字を与え、位置を定める。つまり領土が地名によって確定するのである。風土記の編纂は統治に欠かせない事業だったことがわかる。

編纂の詔の最初に、産物ではなく、土地の肥痩でもなく、旧聞異事でもなく、地名に文字を宛てよ、が置かれているのは、地名が支配統治のうえできわめて重要であったからにほかならない。産物も、肥痩も、旧聞異事もどこのことか、地名が文字となってはじめてヤマト王権にとって意味をもってくる。

<というようなことは、古代史では常識なのでしょうね。思いつくまま書きました>