遇鹿と助川 あうかとすけかわ
常陸国風土記にある地名由来 日立篇
「常陸国風土記」久慈郡に属する助川。この助川の由来を次のように説明する。
此より艮卅里に、助川駅家あり。昔は遇鹿と号く。古老曰えらく、「倭武天皇、此に至りたまひし時に、皇后、参り遇ひたまいき。因りて名づく。宰久米大夫の時に至りて、河に鮭を取らむと為て、改めて助と名づく」といへり。俗の語に、鮭の祖を謂ひて「すけ」とす。
訓読文は、沖森卓也ほか編『常陸国風土記』(2007年 山川出版社)を参考にした。
密筑の里から北東の方向30里*に助川駅家がある。助川はかつては遇鹿といっていた。古老が言うには「倭武天皇がこの地にやってきたとき、皇后の弟橘媛がやってきて遇った。そのことから遇鹿と名づけた。その後国宰の久米大夫のときに、川に鮭を獲ったところから、助川と名づけた」と。この地域の人々は、鮭のおやを「すけ」と言っていた。
* 古代の1里は、300歩(1500尺)。約545メートル。
つまり、助川はかつて倭武と弟橘の伝説から遇鹿と言っていたが、国司久米大夫のときに鮭が獲れる川があったので、そこから助川に変えた、というのである。
鮭ではなく祖の名「すけ」を採用した理由
鮭川としなかったのは、この地域では鮭が成育につれて名をかえていた(今で言えば出世魚である)ことを知った国司久米大夫が、鮭のおやを意味する「すけ」をあえてのこしたかったからではないか。新たな地名に「成長」を意味する「すけ」がふさわしかったからであろう。しかも一般に鮭が分布するのは太平洋側では茨城県以北で、「すけ」は川を遡上する産卵期にその姿をまじかにみることができる。産卵は誕生につながる。鮭の「おや」を強調する意味がさらにあったということなのであろう。
「すけ」の分布
鮭を「すけ」と呼ぶのは、この地域だけではない。陸奥国と松前にもあるという。『新編常陸国誌』(文政〜明治)は第3巻久慈郡助川郷の条で
鮭ノ大ナルヲ須介[すけ]ト云フコト、当国ニハ今絶エタレド、陸奥国南部及松前ノ土人ハ鮭ノ大ナルヲ佐介乃須介[さけのすけ]ト云ヒ、鱒ノ大ナルヲ麻須乃須介[ますのすけ]ト云フナリ〔彼土人ノ説ヲ聞キタルナリ〕、コレヲ思ヘバ、本国[常陸国]ニテモ往古ハコノ称アリシコト明ナリ
と述べる。
東北地方にオオスケ伝説というものがある。例えば、簗掛八右衛門が鷲によって孤島にさらわれるが、大きな鮭であるオオスケの背に乗って故郷に帰るというもの、あるいはオオスケが川を遡上するときに人々は川に近寄ってはならない、というものである。オオスケとは川魚の王といった意味があり、コスケはその妻をさすという(赤羽正春『鮭・鱒 II』など)。
いずれにしても、関東北部から北海道のかけての一部で「すけ」は川を遡上する鮭を意味するのである。
遇鹿の文字
遇鹿の遇う(あふ)は、二つのものが互いに寄っていき、ぴったりとぶつかること。鹿のかは、所、場所を意味し、漢字を宛てるなら処であろうが、嘉字を与えよという中央の指示。そこで鹿を宛てたのであろう。
常陸国風土記の倭武と弟橘媛にまつわる話のひとつに行方郡の「相鹿」がある。由来も読みもまったく同じである。
遇鹿から助川へかえた理由
倭武由来の遇鹿をすててまであらためた理由は、川から鮭が獲れたからではない。鮭が久米大夫のときに突然獲れるようになったわけではあるまい。
川に名を与え、文字を与える必要があった。
多珂郡の条に「久慈との堺にある助河を以ちて…」とあるように、助川を久慈郡と多珂郡の境にきめた。境を川とするには、川に名が必要だった。
その川の名を遇鹿にかわる地名とした。そのうえで駅家と結びつけることで固定した。
川である助川は現在の宮田川である。流路も流域も久慈川や小川と形容される薩都川(里川)にくらべてはるかに短く小さい川である。だからこそ助川を地名にし、駅家にかぶせて駅家の固有の位置を固定し、広く認識させておかなければならなかった。
風土記には倭武に由来する地名が数多く記載されている。変更がなされたのは遇鹿1ヶ所である。異例なことである。
変更は国司久米大夫のときだった。久米大夫については不詳であるが、変更時期について志田先生は大化改新後まもない斉明・天智朝(655-671)ごろ、と言っている。そして鮭ではなく助という文字を宛てたのは、助が嘉字だと認識した風土記の編纂者であったと考える。
遺称地
遇鹿の地名は、日立市相賀町として現在に残る。江戸時代初期、相賀村があったが、元禄期に徳川光圀が会瀬村と変えた。理由はわからない。
助川駅家があった場所は、こうした経過からいえば会瀬町内であろう。現在は日立製作所日立事業所の本館が建つ台地上にあったのではないか、という説が有力である。なお助川駅家の説明がまったくないのは、駅家はあってあたりまえ、政府が設置したもので、内容はわかりきったことからである。多珂郡の藻島駅家も含めてそのほかの駅家も、そして「郡家」も同様である。
河川としての助川が宮田川と名称が変わった時期はわからない。
ともかく、風土記にしるされた地名が、現代にまでそっくり伝えられているのは、日立市域ではこの「助川」のみである。貴重な事例である。