飽田の村 あきたのむら

常陸国風土記にある地名由来 日立篇

多珂郡に属する飽田の村の由来を次のように説明する。

其の 道前里 みちのくちのさと に、 飽田村 あきたのむら あり。 古老 ふるおきな へらく、「 倭武天皇 やまとたけるのすめらみこと あずま さかひ を巡らむとして、此の野に 頓宿 やど りたまひき。有る人、 まを して曰はく、『野の ほとり に群れたる鹿、 無数 あまた にして いと 多し。其の そび ゆる角は、蘆の枯れたる原の如く、其の 吹気 いぶき たと ふれば、朝霧の立てるに似たり。又、海に 鰒魚 あはび 有り。大きさ八 さか ばかりなり。 あは せて 諸種 くさぐさ の珍しき あぢはひ あれば、 あそび 理□多。』といふ。 ここ に、 天皇 すめらみこと 、野に いでま して、 橘皇后 たちばなのおほきさき を遣して海に臨みて すなど らしめたまふ。 捕獲 えもの さち 相競 きほ はむとして、山と海との物を き探りたまふ。此の時に、野の狩は、 終日 ひねもす り射たれども、一つの しし をだに得たまはず。海の すなどり は、 須臾 しばし がほとに りに採りて、 ことごと もも あぢはひ を得たまふ。 かり と漁と すで をは りて、 御膳 みけつもの すす まつ る時に、 陪従 おもとひと みことのり して りたまひしく、『 今日 けふ あそび は、 あれ 家后 きさき と、 おのもおのも 、野と海とに就きて、 とも 祥福 さち くにひと ことば に、「さち」と曰ふ。]を争へり。野の物は得ずあれども、海の あぢはひ ことごと くら ひつ』とのりたまひき。後の代に跡を追ひて、 飽田村 あきたのむら と名づく」といへり。

訓読文は、沖森卓也ほか編『常陸国風土記』(2007年 山川出版社)を参考にした。

□は判読できない文字。[ ]内は割書。

久慈郡と多珂郡の境である助川から北の道前里に、飽田村がある。古老が言うには「倭武天皇が東国の辺境の地を巡ろうとして、飽田村の野原で宿をとったとき、ある人が申しあげたことは、『この野には鹿が群をなしており、鹿のそびえたった角は、枯蘆の原のようで、その吐く息はまるで朝霧がたっているようです。また海にはアワビがあり、その大きさは8尺ばかりです。そのほか色々な珍しい味のものがあります』。そこで倭武天皇は野にいで、橘皇后を海に遣わし、たがいに獲物のとりくらべをした。このとき野の狩は、一日中かけわまり獲物をねらったが、一匹の獣もとれなかった。ところが海の漁ではほんのわずかな時間でたくさんのおいしいものを手にした。猟と漁がすっかり終わり、倭武天皇に食事をすすめたところ、近習の者に『今日の狩と漁は私と后が野と海にでかけ、たがいに幸を競いあった。野では何ひとつとれなかったが、海の食べ物は飽きるほど食べた』と言った。それでのちの時代に飽田の村と名づけた」と。

*本文では祥福の文字が用いられている。この祥福を当時「さち」と読み、現代では幸(さち)の文字をあてることが一般的である。このことについてはこちら 「さち」は多珂郡飽田の村から生まれた を。

遺称地

飽田の村のいわれは、倭武天皇と橘皇后が海の幸を飽きるほど食べたところから名づけたというのである。

飽田村の遺称地は日立市相田町とされる。相田は江戸時代は小木津村内の字名で、海沿いの地である。アキタとアイタ。音が似ている。風土記に由来する小木津村の字名を戦後の住居表示制度のなかで町名に遺したことは評価されよう。なんといっても町名にあれば探しやすい。

海の幸と山の幸—伴部と山部—

志田先生は、倭武天皇と橘皇后が山の幸と海の幸を競う物語の背景には、この地に大伴部と山部がおかれていたことがあるというのです。

膳臣 かしわでのおみ に属する 大伴部 おおともべ は、天皇の食膳に供する海の幸の調達や水運をになっていたこと。平安時代には多珂郡に伴部郷がおかれていたことがわかっており、伴部郷は現在の友部から川尻町にあたること。山部は朝廷直轄の山林を管理した民で、木ノ実や猪、鹿などの山の幸を納めていたこと。山部は江戸時代にも村としてその名が残っていること。

これらから風土記がこの地を舞台にして山の幸・海の幸の物語を生みだしたには、こうした根拠があってのことだというのです。

*志田諄一「大伴部(伴部)と山部」『ふるさと日立検定 公式テキストブック中級編』(2012年)

倭武天皇と橘皇后

倭武天皇と橘皇后のこの説話には下敷きがある。それは古事記」(8世紀初頭成立)の景行天皇の条にある次のような話である。

そこ<焼津>より入り でまして、 走水 はしりみず (神奈川県横須賀市)の海を渡ります時に、その渡の神、浪を てて、御船を もとお して、え進み渡りまさざりき。ここにその きさき 名は 弟橘比賣命 おとたちばなひめのみこと もう したまわく、「 あれ 、御子に かわ りて海に入らむ。御子は遣さえし まつり 遂げて、 覆奏 かえりごと まをしたまわね」とまおして、海に入らむとする時に、 菅疊 すがだたみ 八重、 皮疊 かわだたみ 八重、 絁疊 きぬだたみ 八重 を波の上に敷きて、その上に下りましき。ここにその あら き浪おのずから ぎて、御船え進みき。

かれ 七日 なぬか の後に、その后の 御櫛 みぐし 海邊 うみべた に依りき。すなはちその櫛を取りて、 御陵 みはか を作りて治め置きき。

景行天皇は12代の天皇、4世紀前半に在位したとされる。

東征の途中、危機におちいった倭武をその妃である弟橘(橘皇后)が荒れ狂う海に身を投げだすことで救うのである。これらは倭武の妃である弟橘の海の神との特別な関係をしめしている。

倭武天皇伝説地

倭武命(常陸国風土記では、天皇と表記される)は、景行天皇(12代。4世紀前半)の子とされ、「古事記」(和銅5年-712-成立)では倭健命、「日本書紀」(養老4年-720-成立)では日本武尊と表記される。

倭武命の東征は、「古事記」によれば、西征の後、尾張→相模・焼津→走水(横須賀)→足柄坂→科野(信濃)→尾張→伊吹山(岐阜・滋賀県境)→能褒野(三重県亀山市)となる。

「日本書紀」によれば、相模・焼津→走水(横須賀)→上総→(海路)→北上川流域→陸奥平定→甲斐・上野・信濃→尾張→能褒野(三重県亀山市)とたどる。

「日本書紀」にそった記述がなされている倭武天皇の伝説地を「常陸国風土記」からひろいだしてみる。

総記の条に 新治 にいばり 、信太郡に 乗浜 のりはま 、 茨城郡に 田余 たまり 、行方郡に 玉清井 たまのしみず 行細国 なみくわしくに 行方 なめかた 当麻 たぎま 藝都里 きつのさと 宇流波斯 うるはし の小野、 波取武 はずむ の野、 相鹿 あうか 大生里 おおふのさと 、香島郡に 角折浜 つのおれのはま 、久慈郡の 久慈 くじ 遇鹿 あうか 、多賀郡の 飽田 あきた 藻島 めしま

なぜにこれほど倭武を登場させるのか。しかも天皇ではないのに天皇として。

倭武は4世紀の人。風土記編纂は8世紀初頭だから倭武の東征から三百数十年がたっている。8世紀初頭、律令体制完成まもない時期。みずからの権威・権力の正統性を説きたいためか。言い換えれば天皇制支配の正統性を物語として、あるいは歴史として紡ごうとするのか。専門家におまかせしよう。