吉川玉吉

最初に化学工学を日本に伝える

旧姓沼田。明治23年(1890)6月15日、沼田長作とたまの4男として茨城県多賀郡大字助川に生まれる。高鈴尋常高等小学校を卒業。

東京府豊島師範学校(東京学芸大学)に入学。卒業と同時に本郷の誠之小学校に訓導として赴任。1年勤務したのち、蔵前の東京高等工業学校(東京工業大学)附属工業教員養成所に入学。大正6年(1917)7月卒業。まもなく東京高等工業学校の助教授に異例の抜擢をされる。

大正9年(1920)10月16日、大阪吉川製油所を経営する吉川又平の娘愛子と結婚し、吉川家に入る。

大正10年5月文部省から米英独への2年間の在外研究を命じられる。

最初にアメリカに渡り、マサチューセッツ工科大学(MIT)に在籍。はじめ聴講生であったが、化学工学科のマスターコースの学生となり、マスター・オブ・サイエンスの学位を1年半で取得した。

このMIT時代の吉川は、聴講生として講義や演習にでていたが「教えられる内容はさしてむつかしいとは思わぬが、教師から与えられる数多くの宿題に当たってみると、なかなか思うように解けない」と友人に語っている。吉川は聴講生をやめて、マスターコースの学生となり、「向う鉢巻で他生徒と同様に鍛えあげられ、見事マスター・オブ・サイエンスの学位を手にした」。

ついでヨーロッパに渡り大正12年の暮に帰国。

すぐに浜松高等工業学校の教授に任じられる。

帰国後一年余の著書に『化学機械の理論と実際』(大正14年4月)『化学機械の計算法』(大正14年7月)がある。これらの化学工学の教科書は、内田俊一によれば「その内容はそれから15年後に出版された『化学工学』(1926年初版。1951年の改訂20版までながく化学工学の教科書として使用された)と、編集の態度も記述の様式も、使われている単位の点を別にすれば、ほとんど変わりがない」と水準は高かった。

日本に化学工学による新エンジニア教育方式を導入した最初の人物として高い評価を得る。内田俊一は「彼は日本の最初の化学工学の教師であり著者であった」と評価する。

発行直後の大正14年8月25日、病をえて35歳の生涯を閉じた。

内田は「彼が健在で、浜松で若い連中と共に研究活動を続けたならば、そこは本式の化学工学の中心となった」と日本における化学工学のリーダーとなりえたと述べる。

参考文献