史料 山県熊之助・小沢粂八・三代芳松 功労碑

[凡例] 原文のかなはカタカナであるが、ひらがなで表記した。ルビは編者。

功勞碑(題額)

     故山縣熊之介氏

 氏は本縣下に於ける秋季大目網漁業の先驅者にして将又はたまた當町に於ける鯛手釣漁業の指導者たり 加之しかのみならず漁船に對し石油發動機据付の率先者たりし等當町漁業之振興に貢献する処まことに偉大なりし人なり

     小澤粂八氏

 氏は明治三十八年鰮刺網漁撈法を改良し是をこのしろ漁業に應用せば必ず有利なるへきを悟り自から其使用を試みやや有望なるに力を得益々その改良と研究とに腐心し以て今日本縣下は勿論遠く北海道方面に亘り之が漁業の開發を見るに至れり

     三代芳松氏

 氏は大正八年十月頃太田町登記所に至り歸途竹内製紙工場を参觀し巧妙なる機械力に感し是を漁船に應用せし事を企劃し茲に沖曳手繰網漁船の網巻機械を發明したり 次て本縣の命に依り神奈川縣下三浦三崎地方の一艘巻漁船を視察し大に参考とする所あり 爾來引續き苦心研究の結果大正十五年三月に至り現今の鰮漁業機械揚繰網の發明を完成したり

[裏面]

  [寄付者名略]

昭和五年旧二月十五日建之 久慈町漁網組合
               山形 安書
               水戸金原昭徳刻

[所在]

久慈漁港入口
 この碑は、久慈町の薬師堂に建てられていたものだが、1976年現在地に移された。

功労碑建立を伝える新聞記事

1930年(昭和5)3月15日付の『常総新聞』に上記3人の功労碑建立を伝える記事が掲載された。これを紹介する。

久慈町は東海岸中屈指の水産業地であることは周知の事實であるが、其の主要なる漁獲物は鰹、秋刀魚、鮪、鰯、鯛、キス等年額約百萬圓に達せんとする趨勢を示し来り、更に鰹節、煮乾鰊、竹輪、蒲鉾、田作、搾り粕の如き加工副産 物の製造又著しく進歩し、年産五十萬圓を算するに至つた、右は一面時代の進運に伴ふ斯業者の施設に□然するところなき結果の賜ではあるが、併し一面之が誘導開発に資せられた先覚者の功績は決して没す可からざるものであろう、殊に遠洋漁業の旺盛なる今日、旧来の漁業法を蝉脱して能率増進上一方法を案出し、今や近浜各漁業地のみならず全国的に斯業者は其の恵沢に浴しつゝある事蹟に徴しても偉大な勲功は決して没すべからざるものである、同町漁業組合有志相諮り、故山縣熊之介、三代芳松、小澤久米八□三氏の隠徳に酬ゆべく醵金し、同町薬師堂境内に功勞碑を樹てこれが不朽を謀ることゝなり、昨日本縣水産会長大内内務部長臨席の下に盛大なる除幕式を挙行した、依つて茲に其の片鱗を記すことゝした
山縣熊之介氏 氏は「秋季大目網漁撈法」の先駆者であり且つ「石油発動機据付漁船」の率先者であり、近県漁業の振興発展に寄与貢献するところ頗る多い、尚ほ「鯛手釣業」にも熱心指導の任に膺り為めに斯業に一段の光彩を放つに至つた、大正十二年十二月時の内務部長堀田鼎氏から功績を表彰され、同十五年には久慈水産會長渡邊吉郎平氏から銀側一個を贈呈され、一昨年惜くも故人となつたが、現秀次氏又町議及び組合理事として斯業に盡粋してゐる
三代芳松氏 氏は「沖曳網漁船網巻機械」「鯛漁業機械揚繰網」の發明者である、其の發明の動機たるや大正八年中秋の頃偶々太田登記所からの帰途、当時木崎山下に在つた竹内権兵衛氏経営の竹内製紙工場を参観し巧妙なる製紙機械の偉力に感じ、翻つて水産の進歩遅々たるに発奮し、或は遠く中國九州に或は縣命を奉じて三浦三崎に視察に赴き努力研究の結果完成し、日本海岸東奥房総各地に於ては専ら三代式漁業法に恵澤されてゐるのは特筆に値する
小澤久米八氏 氏は明治三十八年鰮刺網漁撈法を改良してこれを巧みに鰶漁□に改良応用を加へんとして自奮し、自らこれが使用を試み幾度か失敗を重ね経営苦心□□實現を観るに至つた、資性健實の人、一度氏の發明あるや各濱競ふてその漁法を喧伝したために、今日では東奥は勿論北海道各地に於て使用さるゝに至り、氏の功業も又偉大といふべきであらう