江戸初期、慶長7年から元和8年まで日立市域は戸沢氏領だった
慶長7年(1602)から元和8年(1622)まで常陸国多賀郡域は戸沢氏領だった。したがって日立市域の多賀郡域は戸沢氏の支配下にあった。その意味でタイトルは不正確である。正確には「江戸初期、慶長7年から元和8年まで日立市域の多賀郡域は、戸沢氏領だった」である。
このことは『日立市史』『新修日立市史 上巻』『十王町史 通史編』『水戸市史 中巻1』は言っていない。以下、『高萩市史』『北茨城市史』も参照しながら、時系列にそって説明しましょう。
- 慶長6年(1601)、現在の北茨城市と高萩市域である多賀郡の北部を支配していた岩城氏が改易となる。岩城氏は273ヶ村、11万5000石を領し、内多珂(多賀)郡は2万5000石であった。
- 慶長7年(1602)5月、佐竹氏が秋田の地に移封される。
- 慶長7年9月、岩城氏領と佐竹氏領の北部(多賀郡域)に出羽国角館の戸沢政盛が入封し、4万石(内茨城郡小川郷に7000石)を領した。戸沢氏は当初は小川郷に拠ったが、慶長11年4月に多賀郡松岡城に移った。
- 慶長7年11月、戸沢氏領をのぞく佐竹氏領のあとに家康の5男武田信吉が下総佐倉から入封する。那珂・茨城・久慈・鹿島・行方郡に15万石を領した。
- 慶長8年(1603)、武田信吉が入部まもなく21歳で亡くなると、家康の10男徳川頼宣(頼将)が2歳で領主となった。このとき5万石増やされて20万石となり(加増された領地は不明)、さらに翌9年に常陸国久慈郡保内と下野国那須郡武茂に5万石を加増され、25万石となる。
- 慶長14年(1609)、頼宣が紀伊に移ると、家康11男の頼房が7歳で常陸下妻10万石から入封する。
表高25万石の水戸藩の成立である。 - 元和8年(1622)、戸沢氏は出羽国最上・村山郡へ2万石加増されて移封となった。
最上氏改易にともなう移封である。 - 元和8年(1622)、頼房は3万石を加増されて28万石となる。加増分は戸沢氏領4万石の内の3万石である。戸沢氏領の残り1万石は陸奥赤館の丹羽氏(棚倉藩)領となった。
3.については、慶長7年から現在の高萩市および北茨城市域(ともに多賀郡域)は、戸沢氏領となったことが『高萩市史』『北茨城市史』によって説明されている。
4.からは、日立市域の久慈郡に属する久慈・南高野・石名坂・大橋・田中内・茂宮・留・釈迦堂・土木内の久慈川下流域の村と東河内や深荻・入四間の里川中流域の村は慶長7年の11月に武田信吉の領地となったことがわかる。
以上、1から8の流れを読めば、慶長7年から元和8年までの20年間、多賀郡域は戸沢氏の支配下にあったと考える以外にない。したがって日立市域の森山・水木から山部・伊師までの日立市域の北部の地は戸沢氏の領地であった。水戸藩領だったことを示す史料が出てこない限り、この推定は否定できない。
これを直接に証拠だてる史料は知らない。ないのだろう。だから『日立市史』『新修日立市史』などの執筆者はふれない。疑問をもちながらもぼんやりとした表現となっているのだ。私もぼんやりと、佐竹氏移封以後はこの地が当初から徳川氏の支配下にあったように思っていた。そうではなかった。どうでしょう。