高島秀吉

伸びゆく日立 日立製作所の町としての発展を準備

敗戦直後の昭和20(1945)年9月日立市長に就任したのが、高島秀吉でした。昭和14年に日立市が誕生してから市長の選出は、旧日立町と助川町の市政をめぐる主導権争いと製作所や鉱山の思惑に振り回され、困難を極めました。初代市長は日立鉱山副所長の福田重清が14年11月に1年限りという約束で暫定的に就任し、その後任に茨城県の推薦で内務官僚出身の新開渧観が16年9月就任しました。新開は議会の協力を得られぬまま20年5月退任し、その後空席だった市長に高島が就任したのです。以後昭和38年4月まで5期18年市長の職にあり、昭和42年11月29日81歳で没しました。

高島は明治19(1886)年兵庫県姫路に生まれ、40年に兵庫県立姫路師範学校を卒業し、教職についた後、大正6(1917)年久原鉱業(株)に入社。大正9年日立製作所が久原鉱業から分離する年に日立製作所へ。総務畑を歩き、昭和4(1929)年から12年まで日立町会議員をつとめました。

多賀工場(多賀郡多賀町)建設にあたっては工場用地買収の責任者として腕を揮い、19年まで多賀工場の総務部長や勤労部長をつとめました。その一方、16年には日立製作所の傘下となった常北電気鉄道株式会社(のちに日立電鉄株式会社)の取締役社長の任にありました。

昭和22年の公選制による初の日立市長選挙は、洋品店を営み14年から市会議員を務めていた金田秋之介との争いとなりましたが、高島は労働組合の全面支援を受け、得票率7割を超える大差で当選しました。

昭和26年と30年に無競争で市長に当選した高島は、34年の選挙では一転して激しい選挙を経験しなければなりませんでした。初代市長で日立鉱山出身の福田重清が対立候補として担ぎだされたのです。高島の選挙対策の責任者であった萬田五郎は「勢いの赴くところ日鉱、日製の対立という形になってしまった。町の人々もどっちかの陣営に色分けされて、日立の町を真っ二つに分けた激烈な選挙戦に巻き込まれたわけです」と語っています。しかしこの選挙は1万4000票の差がついて、高島は4選を果たしました。

高島の課題は、昭和20年代は戦災からの復興でした。30年には茨城県の構想をしのぐ昭和の大合併をなしとげます。高度経済成長政策のもと30年代は日高・豊浦地区や久慈地区(日立港後背地)における土地区画整理事業による工場用地の創出という産業基盤の整備事業にありました。つまり鉱工業都市から工業都市へと転換する日立市発展の基礎づくりにありました。それは昭和34年の日鉱・日製対決選挙をおいてみれば明白でしょう。大合併直後の昭和31年の人口14万人は、退任時の38年には18万人に増加しています。つまり7年間で4万人の日立市民が増えたのでした。

そんな時代の高島市政が標語のようにして使っていたのが「伸びゆく日立」でした。

参考文献