大内正敬


大内正造さん蔵

水戸藩の農政学者。天明4年(1784)6月、常陸国久慈郡留村(日立市留町)庄屋の政衛門重政の長子として生まれる。実名は正敬(まさよし)、字は子行、通称は與一郎、号を玉江。享和3年(1803)水戸の立原翠軒の門に入る。まもなく翠軒が水戸を離れたため、翠軒門下の小宮山楓軒の門に入る。帰村し留村で15年間庄屋をつとめる。文政2年(1819)、36歳のとき、紅葉組郡奉行となった楓軒に抜擢されて郡方手代役人となる。天保12年(1841)弘道館句読師。楓軒を助け垂統大記(72巻)の編さんに関係。天保14年に彰考館に入り、大日本史の編さんに従い、弘化2年(1845)には弘道館訓導、翌年北郡方勤から南郡方勤、そして再び弘道館訓導。嘉永7年(1854)7月19日歿。享年71。水戸西郊常磐原の墓地(常磐共有墓地)に葬られた。墓碑の撰文は弘道館の同僚だった森蔚であるという。

自分のこと

正敬は、著書「為学大意」に自らの略歴を簡潔に述べている。柴原節子「大内玉江の研究」から抜きだして紹介する。( )内は引用者。

予年七歳、祖君ノ膝ニ抱カレテ、常ニ孝経、百人一首ナトノ、口授ヲ受シヨリ、先考(父)ニ侍シ、四書五経ノ、句読ヲ授カリ、若冠(二十歳)ニ及ンテ、藩府(水戸)ニ詣テ、立原翠軒先生ヲ謁シ、経書ノ講談ヲモ聴、又詩文ノ業ヲモ問、侍リシニ、先生召ニ応テ、東都小石川ニ上リ玉フヲ以、紅葉ノ官ニ至リ、小宮山先生ニ就テ、業ヲ受、紅葉官ノ郡吏ニ召サレ、十二年ヲ歴テ、状元ノ命ヲ蒙リ、翌年官ヤンテ、水戸梅巷ニ移シ…

著作

大内正敬の著作は『国書総目録』『古典籍総合目録』などによれば、刊行されたものはないが、以下のものがある。

「玉江雑記」「玉江随筆」「玉江文鈔」「経説採摭」「国制摘録」「常陸名家譜」(天保6年)「郡制論」「本朝食禄志」「清慎録」(弘化2年)「為学大意」「静窓随筆」「大内家譜」「おもいで草」「玉江全集」「鶏肋問答」「筑波紀行」「北遊唱和」

「清慎録」以下の9点は茨城県立歴史館が収蔵する(「精慎録」で登録)。なお上記にない藤田東湖の『勧農或問』を批判した「『勧農或問』批評」は、文部省史料館(国文学研究資料館)所蔵の須田家文書の中に「勧農或問・社倉私議合冊」としてあるという。

正敬はまた歌も詠む。「花柵和歌集」(嘉永元年)「水臣和歌集」という水戸藩関係者の歌を集めたものを編んでいる。未定稿という。

清慎録について

小宮山楓軒の事蹟をまとめた「清慎録」は、小野武雄編『日本農民史料聚粋 第十一巻』に翻刻されている(国立国会図書館デジタルコレクション なお同書の目次および本文の表題において実名を「政敬」としているが、「正敬」の誤り)。

また『水戸市教育会会報 第六年之巻』(大正5年3月10日発行)にも「精慎録」の題で収められている。これには底本の表示はないが、現在茨城県立歴史館に収蔵されているものと推定される。というのは本文に続けて、小宮山楓軒の門人石川清秋の弘化3年正月11日の文、高倉助衛門貞幹、小澤有裕、柏原有秀、友部好正、川上与十郎篤倫らの楓軒をしのぶ文章が載り、ついで楓軒の著作、大内正敬「紅葉村舊官府記」(天保7年8月)、巻末に「附録」として正敬ら6人の楓軒紅葉郡の郡奉行時代の歌が載る。これは歴史館本の構成と同じであるからである。

正敬は書名を「清慎録」とした由来について、弘化2年11月の序文で説明している。それによれば師の楓軒が致仕後役人たる者が最も大切に守るべきこととして「清慎勤」と書をしたためたことに由るという。これは「官吏の守るべき清廉、謹慎、勤勉の三つの道(呂本中・官箴)」(『新大字典』)のことである。「精慎録」は誤記であろう。

藤田幽谷批判

大内正敬が知られているのは、藤田幽谷の農政論を正面から批判した「国制摘録」と「『勧農或問』批評」によってである。その内容を瀬谷義彦「大内玉江の農政論」によって簡単に紹介する。( )内は引用者。

幽谷が水戸藩宝永改革を『勧農或問』において「暴賦重斂大に斯民に禍し」「松並(勘十郎)が聚斂の違法」としたことに対して、正敬は「国制摘録」において次のように批判する。

世に松並勘十郎を聚斂の臣と称して、悉く忌疾むと云とも、其時の行義(行為)をみるに抜群の才有る事ハ、今の俗吏の及ぶ処に非ず、又其破れ有て罪壱人に負たるより、其悪をのみ此者に譲ると云とも、宝永改革の行にはまた用べき善事もみえたり、今の軽薄の人の至る処に非ず

「今の軽薄の人」は、藤田幽谷を指しているという。ついで「『勧農或問』批評」(文政11年ごろ成立)である。

古より儒者の僻として、経済をいふもの不少ざれ共、儒者の論は多くは紙上の空論になりて、実行に本づく時、用ひ難き事おほく、所々指障り有と……近頃にては、(荻生)徂徠の政談、(大宰)春台の経済録などは、文章の健なる、理論の詳なる事は、此或問などの及ぶ処に非るものなれ共、世に用難ければ……
只に読書家の玩物となるばかりにて、終に一として用ひられたるといふ事を不聞。いかんとなれば、文人は筆を舞して、我思ふ処はよき程に書なし、我あしき処は悉く害になる様にいへり。其上一見識を不発れば、何れ役立ぬ学者の様に心得、先々の事をあしく云なし、或は形もなき古のことを取立、筆を自在に書舞すゆへ、一ト目見ては、見るに見ゆるなれ共、然ばとて行ふ段に至りては、中々届く事にあらず。たとへば講釈をよくする儒者の行状、ひとつも論孟の旨に不合が如く、行と言とは別物にて、論だまされ、今に此事行べしとおもふは、大なる誤なり。……
今、此書(勧農或問)に論ずる処も、一々理有る様なれども、然らばとて行はゞ、忽に大害を引越し、国の患を見る如く、しかしながら是等もなくて叶はぬ道理なれば、一ト通り見置て、其内に可取ものも有らば、一ツニツは取用ても可然歟。……
妄に作者の名などに恐れて、全くよき書なりと思はゞ、心得違も出来べし。……狐と心得れば、まはさるゝ事なし。

学者の論は空論であって政策として採用できるものはない。『勧農或問』も同様で、一通りは読んでおいて、そのなかでひとつふたつは採用してもいいものがあるだろう。有名な学者の言を妄信してはならない。こう言うのである。15年ものあいだ村で、庄屋として藩の農政をみてきた者としての、また地方行政をになってきた者としての自負であり、苛立ちである。

幽谷批判の立脚点

正敬の農政への考え方を小室正紀「水戸学立原派における『民富論への模索』」によってみておこう。

藤田幽谷たちの農政改革策の中心は、全領総検地の実施とそれに伴う税制改革と商業活動と商業的農業の抑制であった。これに対し正敬は(1)農村の状態を放任しておいた方が農村経済の発展につながる。(2)民間に形成されている富は民のものであり、それに手をつけてはならない、と主張する。農民は収益をめざして勤労に励むこと、農民のもとに今生じているわずかな剰余(富)形成の芽を摘んでしまっては農村経済に打撃を与える、と認識していた。

正敬と師の小宮山楓軒たちの考えは「民間における総量としての富の形成と拡大を肯定し、むしろそこに社会安定の基礎を求め」たのだという。

幽谷の政策をことごとく批判するが、かといって対案を示すわけではない。現状を肯定しているのだ。うまくいこうとしているのだから、そのままにしておこう、というのが、正敬たちの考えかたのようである。たしかに「批判」したら「対案を」という声があがるのは、よくあることだ。しかし正敬たちの「なにもしない」というのもひとつの策ではある。

「水府系纂」*にみる正敬の経歴

大内與一郎正敬、祖先代々久慈郡留村ニ住ス、祖父ヲ茂衛門繁政ト云、留村ニ住シ、寛政三年辛亥四月二十八日死ス、七十五歳、父ヲ政衛門重政ト云、文化九年壬申正月二十日死ス、六十六歳、正敬天保十二年辛丑七月十五日切符ヲ賜テ格式文庫役上座トナリ、弘道館勤句讀師〔先是郡方ヲ勤メ、天保二年辛卯十二月四日格式中間頭列郡方勤〕十四年癸卯正月十七日史館勤、弘化二年乙巳六月二十二日格式歩行士格ニ進ミ、弘道館訓導、三年丙午三月十九日北郡方勤、四月十一日南郡方勤ニ移リ、九月十一日再ヒ訓導トナル、格式續テ弘化四年丁未七月七日歌道方兼職、嘉永元年戊申十二月二十五日格式小十人組列トナル、安政元年[嘉永7年]庚寅七月十九日死ス、七十一歳

*「水府系纂」は、茨城県立歴史館で写真版をみることができる。
 〔 〕内は割註。読点と[ ]内は引用者。

秋山高志「花柵和歌集と行方の歌人たち」(『在郷之文人達』)から「花柵和歌集」に収められた正敬の歌をいくつか紹介しよう。

雨晴るる谷田のよとの玉柳風も緑の色ぞ見へける
  閏七月の月を
加はれる数さへつらし天の川逢瀬も波の後の文月は
  大場恕軒入道家にて
誰が宿の夕暮れならむくもる日も入江の風になびく煙は
  長島尉信より小田氏のふる事書きたる文どもを
跡つけて訪はるも嬉し小夜千鳥寒き霜夜もここに重ねよ
  天保二年二月十九日、紅葉の宮府やめられ、人々水戸に帰りける時
立寄れば一樹の陰も宿なるを枯れし紅葉の里の別れ道

参考文献