萬田 五郎
住む町・働く町・楽しむ町─日立製作所の町の福祉
1969年、町づくりの指針となる「日立市長期計画案」が発表されます。その前書きは、日立市を比喩して「のぼりきった太陽」といわれることがある、で始まります。日立市を「市内鉱工業生産の構造や規模などが、すでに拡張の余地のないまでに拡大し、成熟した都市」ととらえました。萬田五郎市長の2期目のことです。
高島秀吉のあとをついで市長となった萬田は、1905年2月25日秋田県北秋田郡扇田村生まれ、東京帝国大学法学部卒業後、1929年日立製作所に入社、日立工場庶務係に配属されます。日立工場総務課長時代の39年に日立市会議員となり、1947年の衆議院選挙では茨城2区で社会党から出馬し当選をはたします。しかし国政に失望したとして49年の総選挙には立候補しませんでした。49年日立電鉄専務、50年社長に就任、その後日立土地、日立木工の社長を歴任しました。
1期目の1963年の市長選では、前回の日製・日鉱対立の反省にたった日立製作所本社と日立鉱山の創業者久原房之助の強い要請を受け、萬田は立候補を決意したと述べています。労働組合と地元市議会議員の支持もあり無競争で当選しました。67年と71年の選挙は8割を超える高い得票率で当選し、3期で市長を退任します。1994年に89歳で亡くなります。同年日立市名誉市民に選ばれました。
人口の上でも財政上でも停滞をみせはじめた1969年の『日立市長期計画案』は「従来の地方行政は、ともすると工場の誘致など産業基盤の整備を第一義に重視し、肝心の市民生活は二の次にされてきた」とし、「市街地の拡大や人口・市民所得などの急増をはかることよりも、市民福祉と市民生活水準の向上をめざすことこそ重要」だといいきり、万田市政は「開発」から「福祉・生活」への転換を表明したのです。
市民福祉の目的実現にあたっては「市民みずからの主体的な努力」が不可欠であると述べます。日立市は他の都市からの転入者が多く、大企業の社員は企業への帰属意識が強く、社宅の住民は一般市民との交流もなく閉鎖的であると萬田は認識していたのです。そこで「勤労者も、企業への帰属意識より前に、まず市民としての連帯意識と連帯組織をもつ」と長期計画の実現主体を市民に求めました。
これらは現在からみると、1970年前後の日本社会の空気を反映したものになっています。
基本構想のもう一本の柱である福祉について、1963年の市長選挙にあたり「政治は社会保障の完備した北欧社会を理想」と発言しているように彼のうちに早くから胚胎していたものです。68年以降国や県の施策を先取りした福祉行政を進めます。
1969年の長期計画以来、萬田市政のスローガンとなったのは「住む町・働く町・楽しむ町」でした。
参考文献
- 『萬田さん 八十歳を祝う』(1985年)
- 「三人の市長」『日立製作所と地域社会 I』(1993年)